影をひろいあつめて

毎日一言日記

パーティーの後で

Party archive

Leave away from pain.(痛みから遠く離れて)vol.1

f:id:midnightdancingcrew:20231021231301j:image
街のことが知りたかった。蠢いている海底の光のこと、なにかを売ろうと笑顔を向ける電光掲示板のこと、ハチ公前で懸命に訴えている人のこと、悲しそうにタバコを吸っている人のこと、底抜けに明るい笑い声で通り過ぎていく制服の女子高生たちのこと、本当のこと。


 ここは少し変な場所だ。人の顔の印刷された紙があまりにも大きな価値を持つ。人が人を選別して取捨することが当たり前に行われる。人の行動一つ一つに値段がつく。相手の腹を探って裏をかくことばかりが重要になって、目の前にある表情を見ることをやめてしまう。それに飲み込まれて、私はわからないことに分からないと言えなくなる。

 

 パーティーが終わった。


始まりは映画だった。映像作品のためにパーティーが必要だった。人が本当に楽しんでいるところで撮影する必要があって、それはエキストラや設定されたものではどうしてもダメだ、という私の意固地だった。


 やることが山のようにあって、いつも時間に追われていて、ある意味ずっとハイだったのだろう。あまりよく眠れなかった。起きていても眠っているみたいで、眠っていてもいつもうなされていた。

 うまくいかなかったらどうしよう、人が来なかったらどうしよう。あまりにも物事を大きくしすぎた。撮影部の先輩にも好意でスケジュールを空けてもらってしまっていたし、たくさんの人に声をかけていたから、今更引き返すことはできない、とひたすら足を前に動かすしかできなかった3週間だった。

撮影を成功させるためにはパーティーが成功する必要があって、パーティーが失敗することはつまり撮影が失敗することだった。


反省するところはたくさんある。

伝わっていると思っていたことが伝わっていなかったり、伝えておかなければならないことを忘れていたり、手伝ってくれる人と一緒に何かを作っていく、ということがもっとできたんじゃないか、とか、思ってくれる気持ちにもっと添えればよかったなとか、思い出せば後悔することや反省することばかりだ。


本当はパーティーを主催するつもりはなかった。パーティーの様子が撮影できればよかったし、私はパーティーみたいに華やかな人間ではない。根が暗くて、感情表現が不器用で、インドアで、友達との約束でさえ家の外に出られなくて半べそをかくような人間で、コミュニケーションにも長けている方ではないから、うまくいくわけがなかった。けれど物事は物事を呼んで、いつの間にか抱えてしまったデカい負債のためにいつのまにかパーティーを主催することになってしまった。


私はパーティーを主催したことはない。政治的なイベントは何度か企画したことがある。 16-17までは手伝いで、17の時に一度主催で、その後も手伝いを何度か。わかりやすく「子供」だった時はなんでも許されていた気がする。周りの大人が甘い顔をして大人の知識を使って手伝ってくれて、私はそこで何かをしたような気持ちになった。愛想を尽かした大人もきっといたが、私はいろんなことに気がつかないから失敗しても成功してもヘラヘラとしていた。その度に大人たちは「コドモだから仕方がないか」という顔をした。「仕方がないか」


あれからはずっと「仕事」をしていた。大きな声を上げることに消耗して、それに大きな意味を見出せなくなった一定の人々は門の近くから離れて学校へ行ったり海外へ行ったり仕事を始めた。私は、毎朝早くに電車に揺られて、眠りながら夢を見みた。飛行機に乗っていろんな人やいろんな物事をみて、自分の時間に対してお金をもらった。それで生活をした。小さな部屋の小さなベッドで眠って、ご飯を食べた。給料は多くなかったが仕事には責任がついて回った。責任を持ちなさい、責任感を持って仕事をしなさい、責任が必要だ、

仕事をしていた4年間はあっという間に過ぎて、私は22歳になっていた。


4年間で物事は代謝する。何もかもが変わった。町中の人はマスクをつけ、体育祭典は無観客で行われて、20時以降街から明かりが消えた。明るかった人たちはうつむき、俯いていた人たちはもっとこうべをたれた。公園は建物の上に、ブランコが無くなってしまったかわりに帰る家を無くした子供たちはトー横で酒を飲み始めた。私はいくつかのコンプレックスを閉まって、少しだけさようならアーティストに近いた。それでも「あの頃」と「あの子」との和解ができていなかった。言いたいこと、覚えておきたいこと、その時の気持ち、上手に何かをいうことよりも大事にしたい事のためには、仕事を辞めて、食事を食べないで貯めた少しばかりの貯金を手にして、映画を作り始める必要があった。


パーティーはいろんな要素を含んでいる。集団に色はあっても人はそれぞれに文脈がある。同じ窓際の人間は誰一人いない。それぞれが抱える憂鬱はたいてい他人には伝わらない。伝える必要はないのかもしれないし、伝える必要があるのかもしれないけれど、必要な勇気は人によって当たり前のように違う。それに気がつけない時には、ステートメントに書いたように「あの子」との違いに傷ついてしまう事もある。

そんな「あの子」でもある「あの子になりたいあの子」が泣いてしまわないようなパーティーがあったらいいなと思っていた。だからそんなパーティーにしようと願った。


受容のあるパーティーの存在を私が求めていたのかもしれない。


持ち帰ったものを教えてくれた人は何人かいた。私が伝えるべき感謝の言葉を伝えてくれる子もいた。多くの人にとっては数多くある中の一つのパーティーにすぎなかっただろうし、行間を読もうとした人も一握りだっただろうし、それを求めるような欲張りではない。でもそれでもいいと思う。それがありのままで等身大のLAFPだったと思うからだ。人が人の体温に触れた。わたしが、人の体温に触れた。それはあまりにも贅沢すぎる時間だった。


パーティーは終わった。

それは週末から一日早い昼間の出来事で、その日の夜にネオンの喫茶店にはいつものように古いレコードがながれた。


わからないことばかりだけど、空いた空間にはきちんと物があるべきところに収められて、そこにはまるで空白がなかったみたいに物事は日常に戻っていく。それでもそれらがそこにあったという時間を部屋は記憶していて、私はたまにそれのかけらを見つけては少し感傷的になった。感情はきちんと持っている。その事実に少し安心したりする。メモ用紙にありがとう、って書くよ。その気持ちを忘れないように。

 

 

f:id:midnightdancingcrew:20231021231130j:image

f:id:midnightdancingcrew:20231021231114j:imagef:id:midnightdancingcrew:20231021231150j:imagef:id:midnightdancingcrew:20231021231120j:image
f:id:midnightdancingcrew:20231021231101j:image
f:id:midnightdancingcrew:20231021231157j:imagef:id:midnightdancingcrew:20231021231201j:imagef:id:midnightdancingcrew:20231021231138j:image
f:id:midnightdancingcrew:20231021231105j:imagef:id:midnightdancingcrew:20231021231146j:imagef:id:midnightdancingcrew:20231021231205j:image

Leave Away Frow Pain.(リーヴ・アウェイ・フロム・ペイン) Photo by Hanabu

2022年1月、筆者であるさようならアーティストが撮影を兼ねてパーティーを開催。

渋谷道玄坂上に位置する、ユースに人気の穴場的スポットBloody Angleを会場に、ガールズコレクティブ11PMによるケータリング、ManaファウンダーのSoya Ito、多ジャンルの音楽を往来しフロアを魅了し続けるMELEETIMEなど筆頭とするDJ、フリーマーケット、ギャラリーを展開。セレクトショップ、古本屋、若年男性層から人気を得るToushiによるケーキショップOxtimesも出店。

延べ100人が来場。