影をひろいあつめて

毎日一言日記

会話3 新宿喫茶室ルノアールで/ ゴッホ後半

友人との興味深い会話を録音して書き起こすだけの企画第3弾

今回のゲストはHiraku。ロンドンで縁があって出会った。同時期に帰国し、帰国後新宿SAMPO美術館で開かれている「ゴッホ静物展」を2人で見に行った日の会話。ゴッホの生涯とアウトプットから見られる、クリエイティブとの向き合い方について話した。(後半)

 

登場人物:Hiraku→九州の大学院を卒業後アメリカに留学。株式会社konelにて映像や企画のプロデューサーをしながら自身で写真での向き合い方を模索している。

 

ーーーーーーーーーーー

カレーうどん屋から喫茶室「ルノワール」に移動
(珈琲タイムズに入店を試みたが、禁煙中の筆者には喫煙の臭気に耐えられず退散。)南口付近の地下に入るルノワールの店舗はベロアの丸ソファー椅子が対面に6席壁に沿って設置され、キッチン・カウンターの横側に簡易的な席がお手洗いに向かう通路に沿って何席か配置されている。モノクロの基調のユニフォームを着た店員から「好みの席へどうぞ」と案内をされ、どの席も絶妙な間隔で先客が埋まっており、座る席を30秒迷う。若い綺麗目の女性と60前後と見受けられる男性の座る隣の丸ソファー席に着席する。

さア:(メニューを見ながら)
あのさー、750円以上は850円でも970円でも1100円でも体感同じだよね。

ひ:わかる

5分雑談をしながらオーダーを悩む2人

店員:ご注文お決まりでしょうか?

さア:ブルーベリーヨーグルトフロート1つお願いします

ひ:2つで

店員:かしこまりました。

さア:どうだった?今回、ゴッホ静物画展行ってみて

ひ:それでいうと、初めにも話したみたいに僕は美術に対する文脈をまだ踏まえていないから、ゴッホに対して、もしくは静物画に対して言及することはあまりできないんだけど、人と共有できる項を出すとすると、あくまでも主観でしかないけど、見る側の教養というかリテラシーがある中で、キュレーションをする側か受け取る側の目線で展示を作るのか、というところは一つ面白かった。導入で手紙の引用があったときに話したことなんだけれど、見る側のレベルまで文脈を下げるのか、知の暴力というか、満身で伝えたいことをぶつけるのか、みたいなこととか。

さア:展示の在り方みたいな話かな

ひ:展示のキュレートとか、オーガナイズみたいな話とか
あとはさっきちさちゃん(筆者)が話してみたいな、布石、石を過去に置いてくる、みたいな話で、過去にログを残すことで今のレベルが1つ上がるみたいな、検証のログを残しておくということが価値を立証する、みたいな話は面白かったかな。

さア:あれフランスから帰ってきたあとイギリスで会ったっけ

ひ:パリ行く前と帰ってきてから一回ずつ会った

さア:そうか。なんかヨーロッパ行ってから本当にびっくりしたことは、美術館の収蔵点数の多さだったんだよね。まず土地がでかいっていうのもあると思うんだけど、ほぼ倉庫みたいな感じで。ルーヴルもたとえば中世からルネサンス初期、中期、後期、を経てロマンス、写実から印象派になっていくまでの絵画がざっと8世紀分、美術館の端から端まで並べられてるんだよね。それで、美術館ってある意味で4次元空間なんだな、と思ったんだよね。行ったり来たりできるっていう意味で。

ひ:えっと、要は、同じ空間に特定の時代を切り取った情報を行き来できるところが、3次元に1次元乗っかっているんじゃないか、みたいなこと?

さア:なんか、特定の時間を指定されたログの集積物を一つの場所で行ったり来たりできる、っていう点において4次元だなみたいな。

ひ:そうかも

さア:なんかたとえば、ダビンチの絵見ててこれってあの時代のあの流行の系譜かな、みたいなことを、少し歩けば確かめに行ける、とか。距離があることによって時間は生まれてしまうんだけど。ある程度その空間だけで体系づけることができるみたいな。
ちょっとランダムな話かもしれないんだけど、アールヌーボ、じゃないや、アールデコってわかる?

ひ:グータンヌーボ

さア:アールデコ、19世紀のヨーロッパの建築の流行りなんだけど、アールデコの収蔵量が凄まじくて。概要を知らなくても、たとえば100点くらい一気に早足で見て、ざっと共通項を洗い出してフレームをインストールできるみたいな。それから見るとディテールがめっちゃわかりやすい、みたいな。

ひ:勉強の仕方と一緒だね

さア:そうだね、まさしくそうだよね

ひ:俺が勉強する時も、一回全部洗い出して効率よく体系化するみたいな。効率よく選択と取捨して理論化するよね。

さア:そうそう!まじみんな一回美術館行った方がいいと思う。マジで勉強になるから。ああいう種類の美術館ってあんまり日本にない気がするんだよな。

ひ:大英美術館は帰国の2日前に気がついて慌てて行った。行ったって言ってもマジで中に入って空気吸ったみたいな感じなんだけど、一つだけ食らった作品があって。さっきも言ったみたいに自分はアートの文脈とか素養とかはあんまりなくて、美術館も勉強のために行かないとな、行くべきだな、と思ってるけど、娯楽としてアートに触れる、とかできたことがなくて。だから純粋に美術を楽しめている人が羨ましかったんだけど。多分ただただ、自分が見ている量とか、勉強量が違うから、面白さを見出せなくて当たり前というか、だろうし、だから今までアートを楽しめたことがなかったんだけど、そんな俺でも純粋にアウトプットとしてこれは、と食らった作品があった。

さア:ふむふむ

ひ:それっていうのが写真を用いた作品だったんだけど。20メートルくらいの幅がある大きな作品で、人間が生まれてから死ぬまでに消費する医療薬品、錠剤がズラッと並べられてる。ものすごい量の薬なんだよね。0歳生まれた時、1歳初めて風邪ひいた時、6歳親と公園で、みたいな写真と一緒に、それがひたすら生まれて死ぬまで並べらててる。特に大きなイベントとかはなくて、30で結婚して、50でパートナーが癌になって、みたいな、何の変哲もない人間の一生なんだけど。ライフ・イズ・ムービー、人生は映画だ、みたいなこというとよくいうじゃん、それがすごく腑に落ちたというか。なんか物悲しいっていうのかな、何者かになれなかった誰かの人生が、自分とこいつは何も関係性がないのに、その人の人生に物悲しさを感じたんだよね。人生ってただ生きてるだけで、だけどそれが映画だし、人生だね、みたいな。単純にこの過程は何を得たのかとか、どこに行き着いたのか、とか。大それたことではないことなんだけど、それでもいいんじゃね、みたいな。その中に何かしらキラキラしたものや、真逆のことだけど儚さも感じるし、すごく考えさせられる作品だったんだけど。

さア:あーーー、なんかそれ聞いてちょっとランダムかもしれないけど思ったことがあって。人間の歴史というか、人間という単位で時間を一つ大きく区切るのってやっぱり100年、1世紀が最大の単位なんだな、みたいな。人間の寿命が長くて100年だとすると、半世紀、1世紀が人間にとって丁度いいな、みたいな。またルーヴルの話に戻っちゃうんだけど、ルネッサンスの絵画群を見てると本当に、人が絵を描くということにおいて試みてきたプロセスが、100年単位で精査されていくのが見てとることができたんだよね。

ひ:長いタームで見ると系譜はあるけど、人間が個人単位で直接伝承できることの最大が100年単位なんじゃないか、ということであってる?

さア:んーー、いやぁ多分違くて、人類の絵画、みたいなものの蠢きを感じるっていうか。

ひ:人類の歩みってことか。

さア:そう!人類の歩みがみれた!こーんなにゆっくりとゆっくりと動いてきたんだな、みたいな。

ひ:なるほどね、なるほどね

さア:人間が12世紀ごろにできたことって、光をかくことだけだったのに、暗闇を描けるようになって、構図にしてもレイヤーを前中間後ろの3つのレイヤーで分けて物語を敷くことしかできなかったところ、だんだんと遠近法が確立されて、物語の下部構造をレイヤーの前後に継続させることができるようになっていくんだよね。

ひ:平面的な構造でしか描けなかったところを、前と手前だけではない描き方をできるようになったってこと?

さア:あ、というか、その絵があたかも現実の拡張であるかのように想像させることができる手法をとれるようになったというのかな。

ひ:絵の中で奥行きを正確に描けるようになったことで、より自然な光源に近く、リアリティを追求して描ける範囲が広くなった、より誰かの想像を現実の拡張として描きやすくなったってことだよね?

さア:そうだね、あれだね、これあれだね、構造力学でいう「亀裂が多い方が破損がしやすい」みたいな話だね、ポテチの袋の端は亀裂が多いから破りやすい、みたいな笑

ひ:ほんとだ笑笑

さア:でも本当に、ダビンチとかみてると、この人って暗闇発見した人なんじゃないか、と思った。それまでの絵も、だんだんと暗闇に対する解像度は高くなっているのは段階として感じるものの、残っていて展示されてる同時期の絵で、ダビンチほど暗闇を描いてる人って他にいなかったんだよね。そのことのダビンチの絵見てると「やべー!時代は暗闇描くことっしょ、みんな暗闇描いた方がいいよ、」みたいな気概を感じる。

ひ:え、影をつける、っていう表現の幅を広げた人ってこと?

さア:正確に誰が発見したとかではないと思うけど、その前後の絵を比べてみると、ダビンチ以降表現の幅が圧倒的に広がっているのを見てとれるんだよね。

ひ:それまでは光が光としてではなく、光を描くということに選択性がなかったが、影という対の存在を発見し描けるようになったことによって、光を描くということに選択性が生まれたということ?

さア:うん。影を描くためのカラーパレットって暗い限られた色で表現しないといけない分難易度が高いから、影を描けるようになるとその描画のテクニックの分だけ光を描く幅も広がったのかな、みたいな。
あと、光を描くということの持てる意味の幅が増えた?

親しい友達のストーリーズに乗せたんだけど覚えてるかな、大きな宗教画の話。これ(絵を見せる)

 

f:id:midnightdancingcrew:20231230193113j:imagef:id:midnightdancingcrew:20231230193204j:image

ひ:や、見てないかも。この情報量で書いてたら多分見てたら覚えてる。

さア:あー、じゃあまだ親しい友達に入れる前か。
これ見た時、私これはルネサンス中期までにしてきたことの集大成だな、と思ったんだよね。

ひ:ふむ

さア:宗教画にとって最も大事なことって、その宗教が持ってる世界観に説得力があることだと思ってて。想像された世界の辻褄があってることが、信仰するための安心感につながっているんじゃないか、みたいな。という

ひ:整合性のとれたルールが敷かれていて、重力があるか、みたいな話だよね

さア:そうそう!それで、宗教にその安心感が必要なのであれば、宗教画を描くにあたっても、同じようにその安心感が敷かれていなければならないはずだ、と思ったんだよね。

ひ:なるほどね

さア:ってなった時に、下部構造がレイヤーに分断されずに継続して敷かれている必要があるはずだ、みたいな。で、この絵の場面設定として、下部構造が絵の手前から絵を斜めに横切って奥まで敷かれてるんだよね。これがまず宗教の土台を作っているな、と。それで、一番手前のこの信者と、一番奥に配置されている修道僧のサイズの違いで、距離を作り出していると。そのことで、この構造体がいかに大きなものであるかということを示唆することができてるわけですよね。で、この平行距離の長さが、この天井がとても高いものであるということが想像できる。この「いと高きところ」の「尊き光」の存在をより強調している、みたいな。

ひ:そうか、そもそもめちゃくちゃデカい絵だしね

さア:うん。で、注目してほしいのが、この最も手前でミサを見守る信者の描写で、この人たちの手前側、見ている私たち側に影をつけているじゃん、ここに影をつけることで、この天の明るさを対比で表しているんだよね。それによって、この中間部に配置されているミサを行う人々を照らしている光が、その天から賜って(たまわって)いるものだ、ということも同時に示唆(しさ)できるわけ。

ひ:あー、今まで光だけで100表すしかなかったけど、ベースラインを0とした時、暗部を−100で作れるから光は100で変わらなくても、効果として200「光」にできるのか。

さア:そういうこと!その宗教上の救いである部分の「光」の豊かさをより強調できる。

ひ:ふむふむ

さア:あと、もう一つすごいな、と思ったことは、この「天の光」が絵の中に独立した光源がある、ということ!画家側から立てられたライティングではなくて、絵の中から絵の中の世界を照らす光源があるんだよね、言い方難しい。この手前が影になっている信者がいることで、絵の外の存在である私たちも、その絵を見る時、その「光」を享受する人間の1人になれる、絵の中の人間の1人になったような気持ちになれるんですよね!

ひ:へーー。え、そういうことってそういう絵の解説とかを見て思ったの?それとも全部自分でそれ考えたの?

さア:解説とかは特に見てないかも。西洋史の大枠はインストールしてるけど、純粋にこの絵を見てこの絵だけから考察した。

ひ:俺この絵からそんなに考えたりできないかも

さア:宗教画はかなり勉強になったかも。やー、でもこの絵何しろデカいからね、見て欲しかったなーー

ひ:なんか、そうやって見ようとしてこなかったから見えなかったっていうのは絶対にあるんだけど。でも今読んでる西洋美術の歴史の本は、まだ1ページしか読んでないんだけど、既に興味深いというか、例えば美術の始まりが150万年前から始まってて、とか原始美術からエジプト美術まで遡ったところからの系譜のこととか、そもそもそのプロットを知らなかったから、既に「へー」がたくさんある。

さア:へー、150万年前なんだ、途方もねぇ〜

ひ:割と「アート」の枠組みとして見ると、高尚なイメージがあって、放任主義というか、感受性勝負みたいな印象があるけど、史実とか文脈の中の出来事として見ていくと、そこにある物理法則みたいなものに則って楽しむことができるんだな、みたいな。

さア:そうです!(人差し指を立てる)美術館は楽しい!

ひ:大英博物館で高校生とか中学生たちが床に座ってるのとか見て、青年期にこの空間でぼーっとするだけの時間過ごしたかったな、みたいな気持ちになった。

さア:あー、わかる。あとあの子たちめっちゃ床に座るよね。

ひ:うん。ああいうのいい。何もしないことが好きだから、その空間にいたい。アートを観にくる人たちを観に行きたい笑

さア:笑笑

ひ:結構ずっと入れるなーって。

さア:大英に行った時に感じたことと、今回ゴッホ行って感じたことには違いがあった?

ひ:んー、それでいうと、物から受ける感動はなかった。大英でみた写真みたいに非言語で圧倒される経験はなかったかも。でも自分が作る方の人間でいること、みたいなことを最近は考えていたから、気にはなってて。アートを言語として読み解く、実験のプロセスとか美術史の中の文脈から読み取れるおもしろさとか感じることはできたし、例えば果実の静物画のレファレンスとゴッホの描いたリンゴとカボチャの絵とかも

さア:あれ面白かったよね

ひ:うん、面白かったし、なんか、その対比の仕方というか、割とシンプルなロジックだな、みたいな、そういう気づきはあった。その静物画、という土俵で、例えば16-17世紀の、豪華な食卓に仄かに漂う少しの闇、みたいな光9:影1みたいな静物画に対して、ゴッホが影を描きながらその中の強い生命力、を描く、みたいなことを、魚だとか、いろんなサブジェクトに置き換えながら毎回繰り返してたじゃん?

さア:うん

ひ:そういう意味で、群として見ると難しそうに見えるけど、一つ一つの試みは割と簡単というか、意外と難しいロジックではないな、っていうか。割とシンプルに手の届くトライを積み重ねていったんだな、と。

さア:そうだね、その自分の経済水準と絵に対してかけられる体力、みたいな話にもつながってるよね

ひ:で、その公式って静物画というルールを理解した上で、ゴッホは敢えて逆転させたのか、それとも自然と試みた結果逆転したのかはわからないけど、そういう手順を踏んだものが、売れましたよ、っていう一つの答え合わせをされている、というのを見れたことはすごく面白かった。割とロジカルにアートというものを組み立てていけそうだな、というか、だから自分に置き換えてみると、展示の時にも話したみたいにデジタルとの向き合い方とか、試みの回転を早くしていくこととかにもつながってきてて、一つ自分にもできそうなものの指針が見えた感覚はある。で、俺が今やらないといけないことは、多分「知る」こと、流れを知る、フレームを理解することだな、みたいな。で開けられる引き出しを全部出すこと、みたいな。

さア:そうだね

ひ:うん、だから美術を見る、という時にあんまりそこに意味性を見出さなくてもいいのかな、というか。大英で見た時に感じたものが、純粋な感動だとしたら、今回のゴッホはスルメみたいな。自分で解釈すると旨みが出てくる、みたいな面白さだった。だから、質問の答えとしては、大英との体験とは違った、かな。質問の答えとしてあってるかな。

さア:うん、めっちゃわかる。あと、自分的に面白かったのは、自分達の見えてる目高の物事を描いたことが、対比を生んだり、文脈を率いているところ。その画家たちのリアリティが自分の周りにあるものだけだった、というのが絵を見て感じ取れるというか。裕福な画家たちは豊かな果実がリアリティだったけど、ゴッホにとってはそれが生活に即していないものだったし、ゴッホの食卓にあった洋梨やりんごたちが、自分との距離が近かった、結果的にそれを描いた、ということが、そしてそれが結果的にアンチテーゼというか、画家人生における試行になっていることがなんか、感慨深い。

ひ:ニシンの燻製とかね、土着な感じ

さア:やぁ、本当に面白いよ。ミレーとか、私ミレーそんなに詳しくないからどんな人間なのかとか全然わからないけど、有名なところで言えば落穂拾いとか、やっぱり絵を見てると、その社会に対する眼差し方が「きっとちゃんとご飯食べてる人」だな、みたいなものは感じるっていうか。落穂拾いしたことない人なんだろうな、みたいな。その民を見る視線に感じる。

ひ:お金がある人が不幸を探す感じというか

さア:なんか、あれだ、ミレーはおしゃれに古着着る人。ゴッホは普通に古着しか変えないし、普通に古着着てる人。

ひ:あーー、それが板についてておしゃれに見える人だ。

さア:そう、でもそれがおしゃれだから、とかじゃないの。着れるもの着てたら、みんながカッコいいって言ってるスタイリングになってた、みたいな

ひ:そうだね笑、そうだね笑

さア:スッキリ。てか今日って木曜日だよね、なんでこの時間空いてんの、世間ってもう正月休みだっけ

ひ:や、今日土曜日だよ

さア:え、今日土曜日?あ、あ、そうか、昨日金曜日だったもんね。曜日の感覚常にないな。

終わり