影をひろいあつめて

毎日一言日記

交換日記9:彼女が振り返る頃、そこにもう彼女は存在しないこと

2026/9/6
金沢駅に降り立ち駅構内の駐輪場に置いていた自転車が回収されたことを知る。8月は金沢を留守にしていた。サマソニでVJをするという友人から誘われ、新幹線の代金を出してくれるというので東京大阪公演とハシゴしてそのまま東京に滞在した。その間平岡さんと遊んだり会社の同僚たちと飲んだり、会社の取引先のオフィスに寝転がりに行ったり、バンドのMV撮影を手伝いに行ったり、学生の映画の撮影を手伝ったりした。どこに出向いても後には必ず気分が落ち込み、なぜあんな事を言ってしまったのか、なぜあんな態度をとってしまったのか、なぜあんなことを言われなければならなかったのか、頭がぐるぐるとして、外に出ては寝込み、寝込んでは外に出て、傷ついてかえってくる事を繰り返した。

無害な人間になりたくて必要以上に人の目を気にしてしまう。自分は「彼氏の近くにいて欲しくないタイプの女」である自覚があり、恋人のいる人に分別のないそぶりは見せないように極力気をつけて過ごしている。彼氏の近くにいたら嫌なタイプの女同士でバッティングしないようにも気をつけている。あなたの縄張りをあらすつもりもないし、あなたの「男たち」を奪おうという気もない。だから私を迫害しないでほしい。だから2人以上共通の知人がいるコミュニティで色恋をしないようにもしているし、元恋人に共通の知人がいる人も好きにならないようにしている。なるべくトラブルは避けたいのに、なぜかいつもトラブルの匂いがする。そしてトラブルは起きるからいつも隠している。トラブル好きに好かれたいわけでも、トラブルの人になりたいわけでもないからだ。

2026/9/10
もし私が今までに起こったことを全て肯定的に考えたらどうなるのだろう。殴られ続けたことは良かった、なぜなら殴られても痛くなくなったから。謝り続けて食事を抜かれ続けたことも良かった、なぜならひもじくても食事をせずに生き抜くことができたから。自給自足の家で良かった、なぜなら人と分かり合えないというなんかかっこいい考え方を持つことができたから。ネットで叩かれて良かった、なぜなら自分や家族は頭がおかしいことを知り家を出ることができたから。家出をしてきて良かった、もう殴られることに甘んじる必要がなくなったから。殴られて良かった、人のことを殴らない人間になれたから。殴られて良かった、だから今意味不明な休職をしてクソみたいな停滞した日々を送っている。...?そうことじゃない気がする。
正直あまりにも不公平だと思う。苦労もたくさんしたし、受けなくても良かった傷もたくさん受けて、人の10倍ハンデがあるから死ぬほど頑張って生きてきたし、腐らずに誰のことも殴らず迷惑もかけずに生き続けてきたのに、その結果が鬱病で休職、さらに人よりも遅れをとることになるなんてあまりにも不公平だと思う。自分の人生を他人に手綱を引かれたままではだめだと有名な家族の令嬢である顔の綺麗なインフルエンサーが偉そうに言っていたが、正直親に殴られ続けたり、土下座をさせ続けられたり、食事を抜かれたりしたことないんだろうなと思って意地悪な気持ちになった。自分にご褒美に伊勢丹の一階でコスメを買うの、と言っていた。正直死ねばいいと思う。何か大きな困難から乗り越えた、という顔をして自信を持って生きている人間の大抵が憎く、死ねばいいと思っている。お前が困難を乗り越えることは私が困難を乗り越えることと難易度が圧倒的に違うからだ。0歳の頃から生きることと死ぬことは他人の機嫌一つで決まるのだ、と毎日毎日無力感を学習したこともなければ、泣いても喚いても怒っても誰も助けてくれないどころか山奥に一人で置いていかれるのだと繰り返し繰り返し学習させられ続けたこともない。レイプも痴漢もかわいそうだが、健康な人間が手足を切られたところで切断されたところを縫い直して繋げてあげればいいだけで、回復するためのエネルギーは全てそこに注ぐことができる。対処を間違わなければ、たまに傷の跡が痛むくらいで、腕は元通りに動かせるようになり、生きることには問題がない。しかし虐待をされて育った人間は全身傷だらけだから常に回復にエネルギーが裂かれ続け、気力がない。食事もしていないから体力もない。寝ることもできないからバグが蓄積し続ける。放電し続けている。全身傷だらけのまま動き続け新しい傷を負っていく。私の脳みそは慢性的なトラウマで炎症を起こしているから頭が悪い。人々には発達グレーだろうと噂されている。グレーなんだから恥じて生きろよ。グレーなんだから世の中に出てくんな。キチガイは病院にいけ。だからどうせ高校に行けても大学に行けても頭が悪いから意味がなかっただろう。だから中学校以降学校に行けなかったことは結果的に良かった。バカが大学に行っても仕方がないからだ。そう親に言われた。自分の人生に起こったことを肯定的にみれるほどまだあっと驚くようなリビールはされていない。

交換日記8:彼女が振り返る頃、そこにもう彼女は存在しないこと

2026/8/4

抗不安薬を飲むことを2日忘れたら気分が元の不安に戻ってしまった。怒りが沸々と湧く時がある。理由もなくイライラとする。1人だと思う。不安で叫びたくなる。暗澹として鬱々とした気持ちや自分の内面や問題を吐露したり解決してもらいたいと思い、話せない気持ちを抱えているのに、世の中は時間とお金でできているからそんな話を無料で聞いてくれる人などいない。楽しくない話は誰も聞きたくないだろうから黙ってしまう。医者は薬を処方するだけで問題を解決してくれないし、カウンセラーと話す時間は限られていて、1時間予約の予約では話しきれさえしないのに、その度にお金を払わなければいけない。

この絡まった問題を説明しても、誰にも解決することはできない。

2026/8/7

酷い喧騒に呑み込まれる日々にも慣れ、コップは知らないうちに溢れてしまうもので、それはいつも溢れてしまった後に気がつく。酷い喧騒に呑まれている時には、瑣末な音でさえ暴力に思えて、携帯の電源を落とし、陽の光に背を向けることしかできない。ノロノロと糧を胃に流し、水を飲む。「力を養う」とはストイックに運動をすることでもなく、寝る間食う暇を惜しんで本を読み続けることでもなく、「十分に眠り水を飲み食事をする」ことだと27歳にもなってやっとわかる。


「問題」とはいつも容易ではなく、当の本人は積み重なって絡まった巨大な刺繍糸の塊を目の前に、途方のない混乱のなかで泣きながら糸を解いているような気持ちになる。宗教や思想や文化、政治、経済、医療、教育、時代、愛などと密接に絡まった問題が、単一で大きな「複雑」な問題のように思えてしまう。実際に「資本主義」という意味では根っこは同じだろうが、しかし、問題とは、「複合的である」ということが事実で、きっと「複雑」ではない。解いていけば、それが実は枝葉の別れた別々の問題だったことに気がつく。これは、辺野古の抗議船が転覆して修学旅行の生徒が死亡した事故について、「政治的中立性の問題と、安全対策の不備は別々の問題です」って第三者委員会が言ってたから気がついた。日経新聞には教訓が詰まっている。


幸せじゃないことが私を前に進めてきたのに、幸せになってしまったらもうこれ以上前には進めない気がして、幸せになるのが怖くて目を背けていた問題にも、どうにもならない日々が来てしまっては足を止めるしかない。投薬治療という存在を知り、「人類のなぜ」の先に生まれた、事実上の「幸福の可能性」に身を委ねてみようと試みる。「可能性」が人間の絶望の理由だったとしても。欲深さを隠しもせず生きようとすることが例え馬鹿みたいだったとしても。「未知」であることが「怖い」の理由なら、その先には「未知」に会えるのだと思えばそれは希望とも言えるかもしれない。「今の時代治らないものなんてないんだから」って中町綾も言ってたし。


眠っているのか眠っていないのかわからない日に「願っていることは思いもよらない形で必ず叶うんだ」とふと腑に落ちて、「問題を問題と思う限り、それは解決するのだ」と漠然と理解した。

2026/8/10
投薬治療を始めてから全てのやる気がなくなった。リールを見続けたりすることもできず、本を読むこともできない。かといって文章を書くこともできない。考えがまとまらず、何に対する熱意や集中力もない。ただ目が散る。

2026/8/30
8月の中旬ごろ、友人の手伝いにかこつけて新幹線に乗り東京に戻ってくると、金沢に戻りたい気持ちがなくなり2週間ほど妹の家に滞在していた。東京にいて別に何をする訳でもない。映画も観に行かないし、美術館にも行かない、ランダムな友達にあったりすることもなく、パーティーにも行かない。しばらく書くことをやめていた。何を書いても同じ口調で同じ事を書き連ねるばかりで自分に飽き飽きする。他の文体を取り入れようと本を読もうと試みたこともあったが、文章が読めない経験を繰り返したら、本を開くことさえ興味がなくなった。どこに行くにもパソコンと本の一冊は必ず鞄に差し込んで出かけていたものだが、最近は鞄を持ち歩く必要さえないくらい持ち物が少なくなった。出かけても音楽も聞かず携帯もみず人の顔を不躾に眺めたり、電車の吊り広告を冷やかしたり、スクランブルスクエアの大階段に5時間座り続けて雨が降ったり止んだり日がくれたりするのをみたり、三茶や渋谷・下北から杉並の自宅まで歩いて帰ったりし、家にいる大抵の時間は眠っていた。人に会うとどっと疲れ、3日は寝込む。よくもそんなに眠り続けることができるな、と関心さえする。

交換日記7:彼女が振り返る頃、そこにもう彼女は存在しないこと

2026/7/3
自分との交換日記を初めて、気がついたら半年経った。
半年間あっという間に過ぎてしまっても、この日記のおかげで自分は何をしていたんだろう、と不安になることもない。自分についてわからないことはまだたくさんあるが、色々なことをダイジェストして、新しいことがわかって、半年前よりもずっと骨が太くなったと思う。大幅なOSの修正があったから、私は今全く新しい私である。そんなふうにずっと変わり続ける自分のことが好きだ。その書き始めを新しい章にできたことを嬉しく思う。

 

掌を擦り離す道標 ハーデスを抜け光の出口

2026/7/5
凪でも 立つ波のおもて じつとみて おもしろがれる 人でよかった

面白かったこと
・ドローンの牧羊犬
・自分で農業にも携わってる銀行の農業アナリスト
・新聞の情勢欄と文化欄、使ってる言葉が違いすぎる

最近短歌を書いている私を見てくれていた社長から、金沢を訪れている詩人との遊びに誘われ、上司の監修した一頭貸しの宿で中年の集いに参加させてもらった。いつもは見下されているように感じる社長も、昨日は心なしか優しく、気にかけているように感じられた。一棟貸しの宿の仕掛けはとても面白く、文学をわかる人ならばと思ってつい話したくなってしまう気持ちを抑える。仕事にするためには、相手に興味を持ち、質問をいっぱいすることですよ、と酒を買い出しに行く道すがら、社長が諭す。本当にそうですね、と思う。

帰金してからすこぶる調子がいい。
思い悩んで床に伏してしまわぬ方法を編み出した。手のひらを揉み、擦る。過去のことや辛かったこと、もう終わったことや未来のことは考えて疲れるほどには何もいいことがない。未来から逆算して歩を進めてきたが、結局のところ、未来のことはわからない。夢はあっても私の興味はどこまでも広く広がり、学びたいことは星の数ほどあり、すべてのことをすることはできないから、目標を一つに決めてしまうと未解決のタスクにメモリが奪われる。山盛りに立ちはだかるありもしないタスクに頭を悩ませている間、私はベッドから動けず、泣くことしかできない。ベッドから立ち上がれない日が続けば、何もしていないのだから不安は余計膨らむ。意味がないことにふと気がつく。悩み事をしている時間は無駄だ。

大阪の友人宅から金沢へ帰る電車で、恋人や将来・仕事のことを考えそうになるたびに指や手を揉み、乗り換えのことだけを考える。降りそびれることもなく道に迷うことなく次の電車に乗り換えができると、次の乗り換えのことを考え、また無事に乗り換えができると、今まで自分がどれだけ注意散漫で注意深くなかったかがわかった。これは彼氏や大阪の友人から学んだ。オーガナイズされた人々は、歩く時は歩くことに集中し、旅をするときにはロジに集中する。だから、ボケッとしてすべてをなし崩しにする私のことが恋人は理解ができなかったのだ。次にすることだけに集中していると、意外と物事はシンプルだったことに気がつく。一つ終わったら次することを考えれば良い。3つ先のことまでだけを考えることにした。家にかえる、荷解きをする、洗濯をする。食事をして水を飲み、そしてやることがなくなると、したかったことができる。空き時間ができたら本を読み、意味のないことに想いを馳せることがないから内容の理解も進む。ジョギングをすることもできるし、休日に午前中に起きられるようになった。整頓された脳みそにスイスイと情報が注ぎ込まれていく。どこにでもいけそうな気がする。1年先のことが恐ろしくはなくなる。

2026/7/9
ビスケットとミルクがないのひとりごと あなたに宛てて書きたい便り

2026/7/11
ワインの詩、ぽつねんと海行く帆船 ワインの詩、この台所まで

1日5分のランニングと、新聞を読むことを初めてから1週間が経った。
小さな習慣だから続けることにあまり負荷なく続けることができている。
人に見せない日記を書きなさいと土門さんが言っていたから、ここではないところで独り言を羅列している。本当の私は落ち着きがないようだ。一文、めっちゃ短いもん。いつも一人で喋る独り言も自分にとっては大事なことだったんだな、と思う。

会社の人たちが短歌をたまに送ってくれて嬉しい。

2026/7/14
起きあがろうとベッドの縁に座って痩せた自分の体を鏡越しにみたら、乳は萎びて垂れ、背が曲がって、脇腹が浮き出て、顔はやつれている。目が腫れ、手足が震えて背中や肘や膝や体の節々が痛い。もう20分くらいずっとこうして座ったままだ。異変に気が付く。おかしい。おかしいから、「何が問題なんだ」と大きな声を出していう。何が問題なんだ。何も辛いことも不安なことも悲しいこともないのに、息ができなくなる。体が芯から震えて立ち上がることができない。会社に行かなくてはいけない。遅れている提出を今日出さなければいけない。問題なく会社に行って、それを毎日繰り返して、問題なく生きなければいけない。ここでダメになってしまうわけにはいかないのだ。たくさんしなければならないことがある。落ち込んだり寝込んだり悩んだりしている暇はない。だから毎日のランニングを始めたのに、今日はもう起き上がることができない。昨日も息が上がり、何が問題なのかわからず、ただ泣いて過ごした。手当たり次第に迷惑をかけてもいいと思える人に電話をかける。こういうとき、そう思える人がいる自分は恵まれていると感じる。大抵の人間にはかけることができないが、数人でもいる私は恵まれている。深呼吸をしなさい、と言ってくれる。仕事中なのに、締切に追われているのに、静かに息を吸って、吐いて、と電話越しに伝えられ、いう通りにする。吸いすぎてしまう息を吐き出す。吐き出す。段々と落ち着いて、視界が元にもどる。息が吸えるようになる。疲れてまた布団に戻る。友人は勝手に話していてくれる。昨日はそのまま泣き疲れて眠った。今日は会社に行かなくてはいけない。休むわけには行かない。締め切りは山積みなのだ。このまま行ったら2度と会社に行けなくなってしまう。誰かに助けてもらおう、と思いまた電話をかける。電話の音が鳴り響いている。電話が通じなくて絶望する。パニックになる時はいつも大体誰とも連絡がつかない。諦めないでどこかしらに電話をかけ続ける自分は生きようとする努力をしていて偉いと思う。今までは誰にかけることもできなかったから、強くなったと思う。しかしパニックの回数はどんどん増えている。自分の症状がずっと何かわからなかったのでgeminiに聞いたら、パニックですと言われ、これがパニックだったのか、とついた名前を聞いてしょぼかったから少し落胆した。こんなに苦しいのにただのパニックなのだ。

鳩尾から迫り上がってくる吐き気とか、足の先から「他者」が侵入してきて脅かされる感覚とか、得体の知れない「他者」に首が絞めつけられる感覚とか、心臓がひよこになったみたいにずっと動悸がしたり、喉の奥がずっと絞められてご飯が食べられないし、夜中には芯のわからない痒みに襲われたり、悲しくないのに涙が出て息ができなくなったり、脳みそをずっと踏みつけられてるみたいな痛みとか、全部パニックだったんだ。
アポまでの間で電話をしてくれた親友のトンチキで何だかまとの外れた心配を聞いていたら、笑えてきて、起き上がることができた。その勢いのまま何とか会社に行き、上司から「大丈夫か?」と聞かれて泣き出してしまった。大丈夫ではない。でも人に言えなくて黙っていなくちゃと思っていた肩の荷が降りて、仕事ができるようになった。また家から出られなくなったら怖くて家に帰ることができない。ご飯を食べない状態を作っては行けないのに、ご飯を食べずにまた眠ろうとしている。

 

2026/7/21

どうせ憂鬱ならお金持ちで美人で欲しいものが全部買えて人に羨ましがられる方の憂鬱がいいな
かわいいのが仕事になってみんなにかわいいって言われて憂鬱がいいし、お腹いっぱい美味しいご飯食べれて憂鬱がいいし、ピカピカのシーツで寝て憂鬱がいいし、人に囲まれて愛されて憂鬱がいい。
人生はどう転んでも不自由で憂鬱だから。

2026/7/24
先週の3連休は眠り続け、カウンセラーと話して自分は鬱だ、と知ってから日に日に会社への足取りが重くなり、これは仕事を続けられないな、と思ったので、心療内科へ行き休職の願いを上司へ申し出た。二人とも長く生きているから状況を把握するのも早く、素早く対処をして、申し出たその日のうちに仕事を巻き取ってくれた。おかげで次の日から休むことができた。直属の上司は「そうじゃないかと思ってました」と納得し、その前から調子の悪い私に短歌を毎日送ってくれていた。鬱は私の発達障害(恐らく)に起因しているような気がし、息を吸うのを忘れたり、水を飲むことや食事を摂ることを忘れることが大きな原因なのではないかという仮説をたて、お腹が空いていなくても9分目まで食べることを意識し、規則正しく水を飲み、呼吸をしているか定期的に気にするようにしてから、ぐんぐんと気分も明るくなり、本を読んだり動画を見たりすることもできるようになってきた。正直、全てのうつ病患者の中で一番回復が早いと思う。賢いからだね⭐︎と自分を褒めたくなる。とはいえ、始まりも、自分の気分や感情に全く覚えがないのに、体が動かなくなったり、起きていられなくなったり、涙が止まらなくなったりと自分の意思とは関係がない症状であるから、鬱とは食事や呼吸どうこうでどうにかできる問題ではないのかもしれない。自分の意思で治せると豪語する私も途中から不安になり、医師に「もしかして、そう言うもんじゃないですか...?」と聞いたら、そうですね、と言われて、普通に意気消沈した。

自分らしく、がわからないから、嘘をつくにも、何が嘘かわからないのが問題だという気がして、萎縮している自分の声を聞くためには、安全な場所が良いだろう、と思いこの日記ではなく、紙の日記に自分の気持ちを綴づることを最近はしていた。私があまりにも私の意見を無視するから、私の中の私が話しづらくなっていたのだとしたら、納得ができる。それはそう。クロニクルポッドキャストの土門さんの回から学んだ。自分らしさとは、どうありたい、の対になる性質だろうから、「集中力のある人間でありたい」「継続できる人間でありたい」という私は恐らく注意散漫である。一度自分の思考を観察した時、同じ事柄を10秒と継続することができなかった。頭の中で話題がどんどん派生していくのだ。10秒後には一番最初に考えていたこと忘れてしまう。私は注意散漫な人間である。何かをこう、と決めることはストレスだし、継続するということを目標にするかぎり、私は自分の無能さを責め続けなくていけなくなる。であるからにして、休職の期間中は、注意散漫に過ごそうと決めてから、気分も明るくなり、本も段々と読めるようになってきた。

東洋哲学の本を読んでいて、「この世界は全部嘘!」と言われ、いや、そんなのは知ってるけど、知ってるけどネタバレすんなよ、と白けた気持ちになる。ゲームに囚われて、小さい言葉の世界で勝つことが、この小さい言葉の世界では評価され、その評価を受けることを唯一の楽しみに、苦しみながら生きているのだから、ネタバレされては困る。東洋哲学は言葉の魔法を全部解き、あなたなどいない、この世は全部繋がっていて、人間は超自然的な存在などではなく、自然そのものだ、と言う。西洋哲学は理知的にこの世の不思議に立ち向かい、知ることを愛することだと理解していたが、科学や宗教と同様に、仮初の地面を固めるための、言葉の世界をより強固にする、この世界の番人であるように思う。お前はこの世界から逃げ出すことはできない、この世界を信じ、この世界を完成させることが、我々の目的なのだ、と言われているような気持ちさえしてくる。東洋哲学も西洋哲学もどちらも知らないので適当なことを言っているのだが...

よくよく考えてみると、私に対する私の態度は、あまりにも目に余る。自分が自分の親だとしたら、児童相談所に相談した方がいいと思う。お腹が空いているのに食事をさせないし、窒息させるし、水も飲ませないし、少しも褒めてあげない。楽しく作ってよくできたことが嬉しいのに、下手だ才能がない、続かないなら辞めちまえ。人に褒められた、と嬉しそうに話しても、お世辞だよ、ちょっと褒められたくらいで調子に乗るな、と言ってくる。病気なのに病院には連れて行かないし、努力しているのに努力が足りないという。おまけに世界で一番醜い、と毎日罵っている。親にされたことを人にはしない自分であろうと心に決めていたのに、自分にさえ同じことをしてしまう自分が、よりによって人にはしないということなどできるわけがない。きっと子供が生まれたら同じようにしていただろう。殴りさえしないだろうが、椅子や机に縛り付けてお前は無能だ、と毎日罵っていたに違いない。自分が幸せじゃないのに、人のこと幸せにできない、って偉そうな顔でみんなが言ってたのって、このことだったんだ。あれ本当にむかついたんだよな。なんなんだほんとに。

この世の中で絶対というものがないことも、自分は全部であり全部は自分であることが腑に落ちたとしても、部屋中を見渡せば「コップ」があり「ボウル」があり、「タオル」や「カーテン」がある。それを用いて生きていく限り、言葉と法によって形作られたものを「そう」だと認め、やはり法を信じ、この巨大なフィクションを信じるしか方法がない。フィクションを信じる限り、やはり私はうつ病のままだろう。

友人が早口で自己の正当性を弁明をするのを聴きながら、これは「恐れ」だと思う。なぜ彼はこんなにも彼の世界から出ることを怖がっているのかを不思議に思うが、多分自分も似たり寄ったりだ。大手町のビル風のことや、恵比寿女子のこと、大学のこと、自分は自分の決めたルールの中で自分を閉じ込めて苦しい思いをしている自分が好きなのだ。自分が馬鹿げたフィクションを信じ、それによって自分が苦しい思いをすればするほど自分は嬉しい。お前らが閉じ込めて、お前らの劇場で踊り、お前らが見て嗤うのを見て、私は嬉しい。お前らのフィクションをフィクションだと、嗤うのが好きだからだ。その入れ子構造を知らない人間を見て、バカなのだと見下したい。そうやって自分が人を嘲笑っている間、人からは私が本当に狭い世界で頭を抱えて同じところをぐるぐると不毛な相撲取りをしている、と半ば不思議に、半ば喜劇のように、そしてイライラしながら見ている。恋人(元)が私を価値観が狭く視野が狭い、と言ったのはこういうことだったような気がする。

朝、光は飛び散り始末が悪い 肩、瞼スキップするクラゲ

日ごと大きくなるひとりごとに怖くなる想像の精神病棟

2026/7/28
世界が私で私が世界なら、私が何をしても世界は世界のままで、私は世界のままだ。だからもうどうでも良くなった。関わってきた人も関わっていない人も、関わらないことになっても、本質にとって何も悲しいことではない。なぜなら私は世界で、世界は私だから。だから私が私のように生きて、私の欲望が動かすように生きて、それで人が見切りをつけるなら、それはそれだろう。とおもったけど、私の根本からくる苦しみはどこから生まれたのかと思えば、父の根本的な欲求から生まれている。父が悟りを開いて田舎に移り住み、父にとって正しく快適なコミュニケーションのために私や私の兄弟の全ての不幸が生まれた。父親は全てが魔法のように快適になり、自分の欲望に従う間、私は父親から乳や尻を触られ、境界線を踏み躙られ続け、損傷した脳みそとそのようなゲームを抱えた魂として育ってしまった。私の苦しみは私自身が生み出したものではない。私や涅槃の意思とは違う力学で、私は苦しみを抱えて生きることになった。やはり私が全て悪いのだろうか。とはいえ、幸せになることは、私が決めることで、世の中の不条理に目くじらを立てて指を刺しても何も意味がない。この世は無意味で、空で、無限だから、自分の心の欲求が決めたことに忠実に生きていくことでしか幸せになることはできない。私がそのように幸せになるしかできないのであれば、他の人もそのように幸せになってほしい。だから私が傷つけても、私が不条理をしても、私に責任を転嫁するのではなく、自分で幸せになれない人間が問題なので、私を糾弾しないでほしい。とはいえ、それが私の本当の心の底から湧き出る欲求なのならば、その欲求に自分は責任を持ち、責任を持った上で、糾弾されることも受け入れなければならないのだろう。この世難しすぎ。ゲロゲロゲロ、だわ。

 

 




 

交換日記6:彼女が振り返る頃、そこにもう彼女は存在しないこと

2026/6/1
誰もが面白い人間なのだとみなが気がついてしまったらどうしよう。口を開いたら面白くない人などいなくて、みなが奇妙で愉快なのだ。と明大前駅で井の頭線を乗り換える人々の波を迎えながら皆の顔をジロジロと見ながら想いに耽る。村1個分くらいの人がゾロゾロと階段を上がり、全員が違う顔や身なりをしている。この人たちがみんな変なのだ。だからみんながおしゃべりを始めたのだ。YouTubeを見たら信じられないくらいたくさんの人が話をしていた。本人たちにとってはかけがえがなく、同時に瑣末なことを垂れ流していく。あまりにも喋りすぎだと思う。なぜそんなにみんな喋るのだろう。

2026/6/2

内向的な小指、まきがたの肩と鎖骨。
天使の羽は重たいから、天使に姿があったらそれはきっと猫背をしているね。
じゃあ私たちの丸まった背中はきっと天使の名残だね。

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2026/6/3

日々が流れていくと死にたさがます。こんなことを言うとまた病んでいるのかと思われるだろうからあまり言わないほうがいいだろう。考えなくてもいいことは考えない方がいいのだ、と言われ、だからあなたの作るものには心がないのね、と思った。考えなくてもいいことを考え続ける。明らかにしなくてもいいことも全て知りたい。地面を這いつくばってアリが行列をなすのをいつまでもみたい。どうして空は青いの?どうして好きなの?愛ってなに?優しいってなに?どうしてはなんで?何はなぜ??靴は履きたくないし、髪の毛を切るのは緊張する。私はだれ?あなたは誰?ここはどこ?目がキラキラした大人はやばいらしい。私は目をキラキラさせた大人。やはり腹が立つことがいっぱいある。そして「正しく」したいと思う。美しくないものには腹がたつ。


2026/6/4
愛おしい友人だちは皆毎日、毎日を積み重ねていて偉いと思う。女優を目指す友達、詩人の友達、歌人の友達、美術監督をしている友達、監督の友達、みんな毎日毎日仕事をこなし、できないこともできるようになって、どんどん前に進んでいる。ストーリーズや日記にぶつぶつ喋ったりしないで、できることをできる範囲でできる限りにやっている。一方私は本当に何もやっていない。毎日投稿していたストーリーズも最近はバカらしくなってあまりあげていないし、映画もあまり見ていないし、本も読んでいないし、美術展にも遠くてあまり出向けていない。たまに絵を描くくらいで、描いても仕方がないような絵をかく。出かけるのも遊ぶのも億劫だから人とはほとんどあっていない。平岡さんと親友と恋人くらいにしか会わない生活をしている。自分の将来が不安になる。漠然と、ではなく、明確に、不安だ。身一つでお金にできることが一つもない。私は私で毎日一生懸命生きているけど、頑張っている人よりも頑張っていないから、自業自得だと思う。どうしたらいいのか。どうしたらいいのか。

恋人に「ちさは自分のことを主人公だと思いながら生活しているか」と聞かれて、自分のことを主人公だと思えたことはないから困惑した。会社の人に聞いたらみんな間発入れずに「そう思っている」と言われて、さらに困惑した。親友からも主人公であるために、という話を以前された。(手紙では私のことをあなたは主人公だよ、と励ましてくれた。ありがとう。)今とっている脚本講座でも主人公であるために、という話をよくしている。目のギラついたちょっと恥ずかしいラッパーも、自分のことを主人公のように思いなさい、とインスタで話していた。脚本家は心を鬼にして主人公に試練を与えるのだという。もう一人の親友に話したら、自分も他人も全部パラレルな自分である可能性があるよね、という怖い話をしていた。いろんな映画があるから主人公だからと言ってハッピーエンドが待ち構えているわけではない。監督の友達に話したら、人生のモチベーションの話だと思うよ、と言われ、なんとなく納得した。身に起こる出来事も、映画のためのシナリオだと思えばすぎた時に面白い物語になっているよ、という話だと思う。身に起こる出来事を出来事のたびに楽しみ、挫けそうな時にも前に進むためのおまじないだ。

2026/6/5
他者の自意識に気持ち悪さを覚えるのはなぜだろう。
他者の在り方に口を出したくなってしまうのはなぜだろう。

2026/6/7
他者と関係をすると、自分の猫背で毛の生えた背中を見ることになって辛い。他者と関わることがなければ、自分の醜いところや美しくないところを見ずに済むし、自分からも他人からも醜いと思われたくはない。だから一人でいたのだと思う。恋人が金沢に来てくれている間、私は多分「感じ」が悪かった。「俺が悪いのか?」と聞かれ、誰が悪かったのか考えあぐねる。後から考えてみれば全て私が悪い。発端は大したことではない。繰り返される彼の悪意のない言葉に私の認知が傷ついてしまい、人には人の苦労や悲しみがあるのに、彼の一面ばかりを見て、それを羨んでしまう。彼が持っていることと、私が持っていないことは、彼のせいではないのに、比べても仕方のないことをいつまでも比べてしまう。そして彼の快適さを損なってしまった。明るく、素直で、子供のようで、理にかなった彼に、惨めな気持ちになってほしいと願ってしまった。他人の幸せを願っているようなことを言っておきながら、本当は他人の幸せが許せないのだと思う。私はこうやっていつも他人の足を引っ張っている気がする。最低だから落ち込む。私は彼のことが好きなはずだから、彼の一番の理解者でありたいのに、私のトラウマがいつも私を惨めの沼に引きづりこんで邪魔をする。助けてほしい。私に銃口を突きつけてくる私を殺して私は楽になりたい。私は温かく大きく優しい人間でありたい。何もかもを包み込めるくらい優しい人間になりたいのに。

2026/6/8
彼と長く過ごした後は大抵息が浅くなる。自分の不愉快さを表現して彼をマニピュレートしようとしたり、駄々をこねてみたり、私のその姿は醜悪で目の当てようがない。そのような振る舞いをした後には思考がぐるぐるとして、彼に値しないのではないか、彼に見捨てられるのではないか、と考えては生きる価値がないようにさえ感じる。私は、私で、私の人生や価値は他人に支配されたり他人に左右されたりするものではなく、私は私に対して私の尊厳を守る義務があり権利があるのに、私はそれをやすやすと手放してしまう。お互いが完璧ではない人間であり、私や彼の人生の価値を私や彼が決めるものではないはずなのに、私は彼の持つものに圧倒されて全て正しいかのように思ってしまう。それを理解すれば私の問題が解決するのだ、と高く見積もっている。誰であっても私を救うことはないと心の底から納得しなければいけないと思う。冷たさとしてではなくて、いい意味で諦めたい。なぜなら救われたいと思う限り私は惨めの沼で針の筵に立たされ、相手にもその針の筵に立ってほしいと願ってしまうからだ。それは彼の腕の中で安心して眠りたいという私の中の救われない小さな女の子がする彼への期待の大きさである。お父さんになって、抱きしめて、私はお父さんがほしい。しかし、私の小さな女の子の期待とは無関係に、彼は若く、「持っている者」であり、それが故にたまに想像力に欠けて、デリカシーがない。そして高慢で、常に「正当でありたい」という「弱さ」がある。それは私についても同じで、私も彼も同様に一人の人間として当たり前の未熟さを持っている。それは事実として存在している。だからと言って彼にはたくさんのいいところがあり、私が彼を愛おしいと思うのは、身分やステータスみたいなつまらない話ではなく、彼の物事の見え方や自分自身でのあり方や諦めないところや話し方や豊かな抱きしめ方で、だから私は彼にとって安心できる人間でありたいと願っている。だから努力をしたいし克服したいと思っている。彼の裁くゲームの上で合格点を取り、彼のゲームにおいてのトーナメントにいる権利を手にいれようとすることではなく、私と彼がいることが未来にとっていいことだとお互いに思える存在でありたい。

2026/6/9
私が願ったからこの世界に存在しているのだと思うと見てきた全ての光が愛おしい。あなたもあなたもあなたも、私が出会いたくて出会ったのだ。私が存在したいと願ったから、あなたに出会うことができた。

2026/6/10 せめて言葉ばかりは正直で
行動が大事だ、という。言うばかりではなく何をしたかだけが大事らしい。行動が伴っていないなら言葉は嘘だと言うが、本当は行動が言葉に嘘をついている思う。優しくしたい・なりたい正直な気持ちに、行動だけが嘘をついている。愛したい、愛せる人になりたい、という素直な気持ちに行動だけが嘘をつく。大切にしたい・大切だ、というありのまま気持ちに行動だけが嘘をついている。

2026/6/14
コピーライティングはグラフィックだという記事を読んで、なるほどね確かにね、意味や音だけじゃなくて、見た目のリズムも大事なんだなと知ったのが先週。ここには何にもないから仕事ばかりをしていると将来が見えなくなる。将来なんてどこにもないような気持ちになるから、なるべく残業をしないように帰宅するようにしていて、
仕事終わってからは家に帰って携帯の電源を落として家にある本を読む生活をしている。片っ端から開いて1行読んで、別の本を開いて、1ページ読んで、写真集を開いて、まるでガキのように注意散漫に紙を撫でる。ツルツルとしてスロット縦スクロールの刺激からフィジカルに戻るためにはリハビリが必要だ。20連休を取った。仕事から少し距離を置いてみたい。辞める、とかじゃ、なくてね。最近短歌と詩に興味がある。生きててどのタイミングで詩を書こうって思うんだろう。詩ってどうやって書くんだろう。平岡さんが貸してくれた詩集には「舌」を世界との「インターフェース」だと再発見し、「舌」ってすげえんだぜ、ということが書かれていて、「舌」ってすげえ、と思った。だから詩はすごいなと思ったけど、詩というものを自分が書くとしたら、何を書いたらいいんだろう。

足りていたり、足りなかったり
するから、美しくても、
悲しそう

なに してる かな
かぶりを振る。
眠るしかないね
メッセージはどうせ届かないし

2026/6/15


小立野のぴゅうとあたし あし漕がなくても 前髪がハハハ

 

あおというええという目はあわないようにね 隣歩いていたくなってしまう

好きな人ができたんだ お幸せにね
せめて言葉ばかりは私に正直で

2026/5/16

花が咲く「さようならの季節だね」という そんなことがあってたまるか

2026/5/17
短歌の1日1首初めてみたが、「それっぽいもの」が永遠と生まれていくだけで、いくら詠んでも虚しい気持ちになる。何が足りないのか。絵を描いていても映像を作ってもずっとこの気持ちが消えない。小手先でいつも描いたり作ったりしている気がする。何かを言っているように御託を並べるのが上手い。賢い人にはバレているから恥ずかしい。プロジェクトは始めるまで腰が重いが、始まってしまったら早いもので、意外とすんなりと進んでいく。結局他人と自分の境界の問題だといつも思う。エイヤ、はいつどこにいても疲れるし勇気がいる。例えば遠いところに住む恋人に会いに行くこととか。

恋人に会いにフィンランドへ行く。友人たちにはお金持ちだね、と言われた。有給を10日間くらい取ったから、贅沢やね、羨ましいと言われた。恋人に会いにフィンランドに行きます、はおしゃれだと言われ、首を捻りそうになる。なんでだろう、気が狂ったように働いたお金を無駄遣いしないでコツコツ貯金しただけで、有給を1日も取ってなかったから日数が残ってるだけで、お金は別にないし、普通に来月の引き落とし額を考えると胃がキリキリするし、国が変わるだけで生活はどこでも変わらないし、実際は群馬みたいな場所だから全然ロマンチックじゃないし。直前まで行くか行かないかずっと迷っているし、ここでトンでも誰にもバレないし、向こうも本当はそれがいいと思っているんじゃないかと思って、飛行機をキャンセルしてブロックしてしまおうかと気の狂ったアイディアに取り憑かれていたが、そんなことも知らない恋人にはお金がかかるな、とボソボソと言われて、じゃあ行くのやめようか?と言いかけて、しかし口をつぐんだ。彼は正直だから私にきてほしくないの?と聞かれたら、口をまごつかせて、その仕草に他意はなかったとしてもそれに対して、余計に私の気持ちをナーバスにするだろうと想像ができた。早く会いたい、という私のメッセージに俺もだよ、という返事がないだけでナーバスになるのだから、明らかにしてみていいことなど何もない。そんな心配などどこにもなく、あっけらかんと私は私のやりたいことをやって、それがあなたも嬉しいでしょ?という態度をし続けなければいけない。それがチサだとみんなが思っていて、みんなにはない「自由さ」だと皆が思い、そんなチサのことを皆が好ましいと思っている。だから私はそのように話し、そのように行動する。

でも確かに私も羨ましい。2年前には人生のためでもなく出張でもないのに長距離移動をするなんて考えられなかった。有給はおろか休日も存在していなかったから、2年前の自分が見たら羨ましすぎてゲロ吐いてたと思う。インスタ上の知らない人は「顔だけで生きてきた元ジャニーズが人生半ばになって自分の薄っぺらさに気がついて人生どん底、努力してみんなを見返したい」と言っていて、おーがんばれーと思うけど、見返されてたまるかとも思う。こちとら27年間も努力し続けてもいまだに何にもなってないんだから今まで顔で得してきた人間が少し頑張ったくらいで世間を見返したらおかしいからだ。しかしこういう了見の狭い考え方は自分の首や周りのことも行きづらくするだろうからやめたいと思っている。フライトの前に考えるようなことではない。普通に、楽しめるように気楽に行こうと思う。

旅券を片手に人を羨む暇があるなら1ページでも読書と言い聞かせる

願ったから存在しているのだと思えば見てきた全ての光が愛おしい。


短歌難しすぎますゲロゲロゲロ

 

2026/06/18

港と名のつく場所には光が溜まる1人で眠る国と国の狭間で

港に光が溜まる国と国の狭間で1人で眠る

みなと ひかり くにと くにの はざまでひとりねむる ひえたべんち


2026/6/19 (6/18)
羽田を出たのが朝の7時で、12時間飛行機に乗ったら15時についた。恋人の住む場所までいく列車に乗り込む頃には日本時間の0時過ぎだから19日のはずだが、しかし私はまだ18日にいる。飛行機に乗るたびにいつも、どうして移動しているのに時間が戻るのか、行ったまま戻ってこなければ、人よりも1日が増えたまま生きていけるんじゃないか、と思う。昨日の国と今日の国を一本線のリボンみたいに広げたら昨日と今日になるのは面白すぎる。AからBの間には7時間の時差があるから7時間の移動でつきそうなのに、12時間かかるし、12時間かけて移動したら7時間戻っている、マジーーック🪄
どうして時間は同時に進んでいるのに時計を分ける必要があるんだろう。どこかの0時はどこかの夕方で、どこかでは朝ではダメなのか?

座っているだけなのにお腹は空くし、移動は疲れるし、ヘルシンキ空港について換金してから食品店に入ったら不味そうな惣菜コーナーを見て一昨年のロンドンでも悪夢のような日々が一気に蘇ってきて、やはり忘れていることなんて何もないのだと気が付く。圧縮されて端っこの方に追いやられているだけで、ふと階層に迷い込んだ表紙にポンと飛び出て思い出させてくる。思い出はびっくり箱。人々の玉ねぎ臭さとか、香水の匂いとか、地球はどこまでも繋がっているのに、歩いている人の背丈も肌の色も髪の毛の色も違うのは変。

何せ長いフライトだったのでドラマをしこたまダウンロードして行ったが、コンセントが見つからなかったせいでフライト前の時点でかなりバッテーリーを消耗していて、ipadは仕様のバグのせいで、有線イヤホンを入れたら充電ができないせいで、たくさんダウンロードしていったドラマも4話程度しか見ることができなかった。もっとも空港のかたく冷たいベンチのせいで一睡もできず、飛行機に乗ってから8時間程度は眠っていたし、絵を描いたりもしていたので、実際は映画を観る時間はあまりなかったが。(久しぶりに空港で夜を明かしたこともあり、フランスでの臨界状態での夜がフラッシュバックし、境界と仕切りのことを飛行機の中でも考えていた。長距離移動は考え事が捗るので良い)

2026/6/19
なぜ1日が伸びたのか気になる。
ずっと6/19だ。

自分の気持ちとはいつまで経ってもわからない。目の前のことに対してこだわりがない。今日の食事に、歩いて行く場所に、これがしたい、がある人は羨ましい。人がしたいようにしたら良いと思う。湖沿いを恋人と歩きながら、なぜ私はこんな辺鄙な場所にいて、頭の中で考えている面白いことの1つも言えずに、眠り込みながら考え事をしている方が楽しい。

どうして捨てられたことがないのにずっと捨てられた犬のような気持ちなんだろう。
待ち合わせにはこないだろう、私を待ち侘びている人などいないだろうというアイディアが頭にこびりついて離れない。

湖はどうやって自分が自分だと思うのか。
どこからどこまでが湖だと思うのか。空から見たときにこれは私だと湖はわかるだろうか。私の水はどこからやってきて、なぜこのように底は濁って、水の淵は欠けた石で埋められて、水際の葦たちは何を考えているのか湖はわかるのだろうか。パイクが底を泳ぐ、彼らの目は曇っているから見えない方が都合がいい。

魚にとって水は、人にとって空気のようなもので、あると気がつかないくらい、透明なものなのだろうか。水のように満たされたものの中で生きていたら、肌を触れる水と「私」はどこまでが私になるのかな。それとも水は読むもので、水の中では大小の風に乗るしかないのだろうか。家はどうするのだろう。体を使うなら足を踏み出して土を蹴るしかない私たちは空気と関係が希薄だね。じゃあ、鳥にとって魚にとっての水と空気は同じかな。

縦横の風に陸(おか)探す蝶ひらひら 振り追う手も川撫でる尾ひれ

短歌5日目難しい。
日本語が崩壊してきた。考えがまとまらない。

 

2026/6/20

認知をなぞれば増える分岐つぶさに広げどんな人間であろうか

2026/6/21

憂さごとに カモメばかりみる 二人羽織 さちあれや聞かば ねぇさちあれや

2026/6/22/

水際に伸びるコーナーが街まで 息切れ旗めく背中眩しい

2026/6/24
圧倒的に構造の違う人間と二人きりでいると、自分が世界に存在しているのかどうかさえわからなくなって、世界すら存在していないかのような感覚になる。確かに世界は存在していて、全く違う人間たちがこの世界で確かに生活していて生きているということ自体が、本当のことかさえもわからなくなって、真っ暗な部屋で一人きりでゲームをしているような孤独に襲われる。そうなってしまうと、色がわからなくなって、息が吸えなくなり、喉が締め付けられて、食べ物が喉に詰まって吐きそうになる。人は人のままで、伸び伸びと生きて欲しく、それを脅かすものが自分であってはいけない。そうやって人が人の認知の中で伸び伸びと過ごす間に、私は私の世界が削られ、何が正しく、何を面白いと思い、何に美しいと言えば良いのか、ますますわからなくなっていく。相手が悪いわけではない。私は私らしくいることを私が放棄することが問題だ。

恋人と過ごす時間、息苦しい日が続いて何が問題なのかを思い返そうとこの日記を読み返していたら、初めから恋人は変わっていなくて、私の在り方が変わっただけだった。彼は初めから彼の言語で話し、私は彼の言語に甘んじて彼の言語に便乗し、彼の言語を吸収しようと選択し、その結果私たちは一緒にいる。彼の言語は究極に直線的で、問題提起があり結論があり、それを証明する式で構成され、「好き」「嫌い」を自分の基準にとって正しい判断を常に下す。自分のスタンスは相手がどうであってもブレることがない。合理的で感情的な星で生まれたのが恋人。それができるようになったら私の脳みその問題を克服できるかと思った。それが彼を魅力的に見せていたが、私の「自由で取り止めのないささやかな気づき」を一つ一つ手にとって愛でることが楽しいおしゃべりは、彼の直線的なコミュニケーションにおいて、フラストレーションになることが見えてくると、世の中に存在しているフラストレーションに対して敏感な私の感受性が負荷を感じるようになり、結果としてギスギスした関係を加速させる。

私は、邦ロックが嫌い。テレビアニメが嫌い。砂糖が嫌い。悪口を言う人が嫌い。体たらくが嫌い。価値観が狭い人が嫌い。自分が正しいと思っている人が嫌い。歪な存在が表情に出てしまっている人が嫌い。黙っていたらいいと思っている人が嫌い。恥をかかない人が嫌い。自分のことを高く見積もっている人が嫌い。人の顔色を窺う人が嫌い。自分の意見がない人が嫌い。世界の面白さに気がつけない人が嫌い。色もかたちも面白みのない建物が嫌い。生産効率重視で作られデザイン性をコストカットされた愛のないプロダクトも、実のつまっていない作品も嫌い。海辺のカフェのカウンターが安っぽい木材とペンキで塗られていたら唾を吐きかけたくなるし、夕日が対岸の工場群にあたり美しい海が見える夕暮れ時に、室内のライトをビカビカにつけたまま営業していたらその配慮のなさに不機嫌が顔に出てしまう。メニューにダサいフォントが使われていたら吐き気がしそうだし、街の美容室や古物商のプレゼンテーションに
訳のわからないフリルやビロードが使われていたら我慢ができないし、ビビッドピンクやドラゴンフルーツの紫は世界で一番品のない色だと思うし、それにエメラルドグリーンを合わせられたら、それを作り出した人間を引っ張り出して首根っこを掴み、一日中色彩の本に向き合わせてこの色はなんだ、この色はどんな色だ、と色の特訓をさせて世界の色彩の美しさを「理解(わから)」せたいと思ってしまう。

そんな風に嫌いなことがいっぱいある。嫌いなこと、したくないことがいっぱいあるのに、私は人といる時、その「好き」「嫌い」がなくなって、全てがモヤに包まれてしまう。どちらでもいい。してもしなくてもいい。好きにしたらいいと思う。私は空気になって、皆が気持ちの良いことをしたらいいと思う。幸せなことが一番だし。どうせ世の中はダサいもので溢れているし、ダサいものが一つ二つ増えようが、変わらないと思ってしまう。私は私でやるわ、よそでね、と思って曖昧にする。それが自分の問題だと思う。「よそ」なんてところは存在していない。この世界でどれだけ自分の正しさを押し付けることができるか、というだけなきがする。尊敬している上司や、尊敬しているディレクターを見ているとそう思う。恋人もそう。自分の正しさを諦めず、世の中を自分の正しさで満たしたいと思い、その方法を探ることをやめない。だから恋人は、メッシの美しさを讃え、ロナウドの醜悪さに罵詈雑言を浴びせかける。それが正しいか、正しくないか、ではない。そして判断しない私の姿を見て、恋人は「諦めて高慢でいる」と思っている。

そんな風に嫌いなこと、したくないこと、がいっぱいあるが、「したくない」自分の気持ちを信じない自分も同時に好きでいる。コンフォートゾーンから出て、自分の知らない未知の面白さを知る理解可能性への扉が、合わない他人と、その人の熱中していることに耳を傾ける行為でいる。メッシの美しさやロナウドの醜さが、彼がそう思うポイントは理解できて何を美しいといい何を醜いというのかわかっても、それの同調しようと思わないし、依然どうでも良いことだが、彼は信じられない速さで試合の状況を理解し同時に言語化し、それに一喜一憂し、彼らの欠点を述べることができる。それをすごい能力だと思う。私はサッカーを見ていてもボールを目で追いかけ、ゴールが入ったか入らなかったかで、かろうじて面白いか面白くないか、という判断をするしかないというのに。彼がサッカーについてゲームを見ながら話してくれている間、私は彼の話を理解するために全てのメモリを注ぎ込んでそれを理解しようとする。理解するためにはエネルギーが必要だから、どこかしらでコストをカットする必要がある。そのために私のボディランゲージは削られる。表情がなくなり、体は硬直し、こうしているとき、私は他者からみて、世界に興味がない人間の態度をしている。しかし私の脳みそは全て彼とサッカーに預けられ、全身全霊で彼と彼の好きなものを理解しようと試みて、そして理解する。サッカーの面白さを、メッシの美しさを、ロナウドの醜さを、ウズベキスタンのチームの脆弱さを、ポルトガルのチームの戦略の精巧さを、サッカーを取り巻く全ての世界の複雑さと経済規模の大きさと、熱狂、とは何か、ということを、90分の試合の中で理解する。そういうとき、ありがとう、と思う。私をここに連れて行ってくれてありがとう。知らないことを教えてくれてありがとう。そう伝えているとき私の表情は強張り、体は硬直し、他人から見て世界かに興味がなく、面白さを理解していない人間の態度をしている。あぁ、あなたに伝われば良いのにこの気持ちが。

そしてその膨大な情報量を言葉にすることができないわたしは、態度で表す必要があり、それは彼の好きなアニメにも興味を持ってみようとする態度で、それをサッカーと同じようにその面白さについていかなければ嘘になる気がして、暴れる牛の手綱にしがみついてそれを理解しようとする。その間も私の表情は凍りつき、体は無表情で、全てのメモリとリソースをそこに注ぎ込んでいるというのに、彼は私が彼の世界に興味がないという絶望感や、彼が存在を脅かされる不安に飲み込まれている。あなたに対して、私があなたが思っているよりも、全力であることを、
彼はそのことを知らない。

2026/6/25
うたた寝をしながら、宮廷のピアニストのことを考える。大きなクリスタルのボタニカルハウスで、お嬢様と左大臣婦人がセラミックの端の薄いティーカップを傾けて色とりどりのクッキーアソートを指でつまんで召し上がる。宮廷ピアニストは彼らが優雅な午後のティータイムを終えるまでワルツやソナタを弾き続けなければいけない。うんざりしている。午後の柔らかな光が注ぐ宮廷の植物園で、ピアニストはうんざりとしている。単調で消費され尽くした曲を弾くことに飽き飽きして、宮廷ではない荒涼とした草原や崖淵や洞窟の中でただ心ゆくままにピアノを弾きたいと願っている。

2026/6/26 
一絵へ

あなたに会いたくて、あなたと話したくて仕方がありません。悲しい時、一番に話を聞いてほしいのは一絵です。昔から、そうだったな。恋人と別れそうなとき、パニックで息ができない時、いつも一番最初に電話しなきゃと思うのはあなたです。昨日も本当は話したかったけど、あなたはきっと出ないだろうと思ったからかけませんでした。あなたと話すことができない理由を、多分今ならわかる気がします。

年末に付き合った人とは別れました。ついさっき。彼に会いにフィンランドに行って1週間過ごして、あまりにも合わないから辛くて、本当はこのあとヘルシンキで1週間一緒にいるつもりだったけど、ヘルシンキには一人で行くことにしました。

私は自分のことを素敵だと思うし、最高な女の子だと思うけど、完璧ではないことも知っている。だから、その完璧ではない部分が、相手にとって完璧であってほしい場所だと、悲しい。のびのびとして訳のわからないことをケラケラという愉快な私は豊かな泉みたいに誰にでもお裾分けできるくらい溢れ出ているのに、その水は相手が嫌いな水なのでは、私も彼も辛い。だから、お互いのことが好きだけど、合わないから、一緒にいない方がいいね、と話しあって別れた。

「抽象的なことを話して他人に伝わると思うのが傲慢だ」「俺と話したいなら俺にわかる言葉にまとめてから話せ」と言われ、これなら伝わるかこれなら伝わるかと話すが、その度に「努力が足りない、伝えることを諦めている」と言われては、今まで話していた自分の言語までもが崩壊して、私の世界を形作っていたものが解体してしまう。そうやって1週間誰もいない言葉のない宇宙に放りだされて、息をするのを忘れて泣きながら過ごしていた。抜け殻になった私の体は全身擦り傷の上に塩を塗られ、何千本もの針で体中を刺されているように節々が痛み、空気が触れるたびに心臓が傷んだ。体がずっとバラバラになってしまいそうだった。

白夜の光がブラインドから差し込むリビングで、仕事の前にベッドでくつろぐ彼の腕を握り、お家に帰りたいの、と震えながらいう。「おうちに帰りたいの」体中が痛いの。「俺といるのが嫌?」「あなたといることを頑張りすぎて、疲れてしまったから今は一緒にいるのが辛い。」「それで俺にどうしてほしいわけ?」「今日家を出て一人でヘルシンキに行く。だから電車を取るのを手伝ってほしい。」「わかった。」

人が私のことを好きだと信じたことが一度もないから、彼が私と別れて泣いたのを見てびっくりした。

「本当に好きだったよ、幸せな時間をくれてありがとう」と言われて私の拙さにやはり悔しくて涙がでる。もし私がお姉さんだったら、お姉さんだったら、あなたと一緒にいることができたのに。(できたかもしれないし、できなかったかもしれない)彼が泣きながら「酷いこといっぱい言ってごめん、楽しませてあげられなくて本当にごめん」というから、好きになってくれたこと、あなたがずっと努力してくれたことのおかげであなたを好きでいた時間を無駄だったとは思わない。と伝える。「私たちは頑張ったと思わない?」彼が肩を震わせて私の襟を濡らしながら頷く。私たちは頑張った。彼が私のために努力してくれていたことも、ずっと考え続けてくれたことも知っているし、私は私が頑張ったことを知っている。自分がなくなるくらい彼と一緒にいることを努力しようとした。

 

彼にはたくさんのことを学んだ。

「楽しい」は「その時間を楽しいと感じていること」
「楽しくない」は「それをしてる時間が1番楽しい、じゃないこと」
「やりたくない」は「やりたいじゃなかったらやりたくないこと」
「考える」は「一つの物事を想定できうる限りの可能性を考えること」
「"考え"ないで話す」は「感情に任せてその場あたりで誤魔化そうとすること」
「嘘」は「矛盾して辻褄が合わなかったら嘘」
「信じられる」は「一貫性があって、明日も明後日も同じ判断をするだろうという安心」
「愛」は「好きになった人の気持ちを"考え"て努力すること」

これ、知ってた?私は
「全部が全部楽しくなくても楽しめる瞬間がある」なら「楽しい」
「どう頑張っても面白くならないこと」が「楽しくない」
「他人の快適を奪うことになっても受け入れたくない」が「やりたくない」
「置き換えたり連想したり周辺のことまで考える」が「考える」
「形のないものをどんな言葉なら表せるかを探しながら話すこと」が「考えて話す」
「相手を傷つけることがなく、喜ばせるため」なら「嘘じゃない」
「明日、明後日違う考え方をしていてもあなたとの未来を愛する」が「信じる」
「自分の認知と相手の認知をすり合わせてお互いが傷つかないように努力して一緒にいる」が「愛」
だと思ってたんだよ。

一緒に買ったぬいぐるみや、キーホルダーを見ると一緒に過ごした時間を思い出す。そのどれもちゃんと好きで、幸せで、あなたのことを考えていた。だからやはり涙が出る。

私が彼のことを好きだったは「本当」で、合わないから辛いことも「本当」
好きという気持ちがあっても一緒にいることはできないことを知る。

2026/6/27
ヘルシンキのいろいろな芝生で、恋人といるための別の方法があったのかを何度も考える。
私がもう少し優しく、恋人のあり方を取り沙汰しないで、ニコニコと見ていられるくらい大人だったら?
艶やかに微笑んで、砂場で遊ぶ子供やスーパーで駄々をこねる子供のように、恋人が恋人らしく過ごすのを愛おしく見ることができたら?私にコンプレックスがなく、ありのままであなたと過ごし、私は私の快適を守り、あなたの快適の侵入に対して「戦おう」としなければ一緒にいることができた?そしてやはりいつも同じ結論になる。あまりにも形の違う人間だから、お互いがお互いの形に馴染むまで時間と体力がかかり、その道のりが遠いこと。

頑張らなくてもできることと、頑張ってもできないこと/できるけど疲れること/誰に言われなくてもやりたいことと、どうしてもやりたくないこと/があった時に、お互いがいるために、どうしてもやりたくないこと、とできるけど疲れること、ばかりだと一緒にいると辛い。構造が違うというのは、この領域の多さ少なさだと思う。

人間と人間が一緒にいることは、認知の宗教戦争だと思う。私にとって私の認知が成立していて、あなたにとってもあなたの認知が成立しているなら、それは何が正しい・間違っている、ではなく何を信じるか・信じないかという宗教の問題である。文化も価値観も教育レベルも違う他人と他人が一緒にいる時、認識や文化の違いで摩擦が起きる。二人の関係性において、どれだけ自分の認知という領土を開け渡さずにいられるか、という既得権益の維持の問題、或いは愛する人間と時間を過ごすためにどれだけ譲歩できるか、という境界線の問題である。それを解決するためには、話し合いをするか、戦争をするという方法がある。お互いが柔軟で欲がなく物腰が柔らかであれば話し合いは成立するが、そうでない場合は話し合いというフォーマットをとっていたとしてもそれは戦争になる。戦争とは戦略があり戦法があり、強い・弱いがある。フィールドや戦略を間違えば領地を根こそぎ奪われ、存在の危機が起こる。私は戦争が不得意な上にフィールドを間違い、そして彼に悪気がなかったことや傷つける意図がなかった事実とは裏腹に、結果として根こそぎ奪われてしまった。だから、土地を、思想を、言葉を奪われ、アイデンティティの喪失に苦しむことになった。ジブラルタやユダヤ人やパレスチナの人々の痛みや苦しみときっと似ている。

そして私の間違えは、
・意図的に自分を大きく見せたこと
・醜く不完全な自分を隠していたこと
・論理や効率というフィールドに力を持たせすぎたこと
だと結論づけている。

友人と電話をしながら、友人から「あなたには論理的思考も論理的な話術も必要ない。」と諭される。「ちさちゃんがちさちゃんのままで突き抜けることが、同じフィールドで戦わない、ということだよ」と言われ、自分もそう思うから、安心する。友人はいつも宇宙で迷っている私に手を差し伸べて、あなたはここにいていい、と伝えてくれる。友人たちが好きで好きでたまらない。

ひとしきりの考え事を終え、自分は2度と別のものに憧れて別のものになろうとしないこと、少なくとも私が私に対して後ろめたくないように、自分にとっての幸せのために選択をする訓練をしていこう、という決意と共に芝生からおもむろに立ち上がり、夕方のヘルシンキのまちを歩く。散歩という行為に集中する。窓の形を取り沙汰し、植物を面白がり、テラスで団欒を楽しむ人々を愛おしみ、ランダムな人間の行き交う様に微笑む。そうしていると、だんだんと「今」が私の近くにやってくる。そうすると安心して、余計散歩に精が出るのだった。

もう20時をすぎているのに、あたりはまるで明るく、テレビの仕事で来た時も夏のことで、夜まで明るかった日々のことを思い出す。窓の多い建物に夕方の光が反射するのを見て、カウリスマキの夕日だ、と思う。

 

2026/6/28

ハコヤナギ降る街の景、夏の夕 雪みたいね 一面の綿毛

 

2026/6/29

たらればに猫背の背中がみえては

パンがつかえるの むねのいたみ

 

2026/6/30

好きなこと 無駄なことして 笑うこと
試しにバナナ 踏んでみるとか

 

頬かかる陽に振り返る誰(たれ)そ彼
遠ざかるのはトラムの鈴音

2026/7/2
19:30 関空に降ろされ、荷物を受け取り税関を通る頃には金沢へ帰るための電車はもう間に合わず、大阪で一泊することになった。さようならのようなメッセージを恋人(元恋人)と送り合い、友達でいようと言葉を交わしたけれど、友達になることはないのだと思う。彼のような友人は私の周りにはいない。ダイジェストできたと思ってもクネクネと考え続けてしまう。書くべきこともないのに、言語化し続けなければいけないような気がして意味もなくキーボードを打ち続ける。ゴミのような思考を投げ続ける。12時間のフライトで、窓側の席に変更する場合には1マン以上チャージしなければならず、真ん中の席で思うようにも眠れず動けず、そうすると脳みその中枢部、鼻の奥とのどの間の奥が痛みのようなものを訴えていることに気づく。渇望、だと思う。なるほど「渇望」は「退屈」だと気が付く。「退屈」が私を破滅に連れて行こうとする。

「頑張り」たいと思っている。自分は頑張ったことがないと思う。ずっと怠惰に生きてきた。やりたくないことを我慢して千切れそうになりながら何かを乗り越えたり、何かを手に入れたことがない。毎日毎日早起きを頑張ったこともないし、勉強を頑張ったこともないし、自分に栄養を送るために食事をしっかり摂ることに気をつけもしないし、運動を頑張ったこともない。たまに仕事を頑張る時があって、でも継続的なことではない。人々は受験を頑張ったり部活を頑張ったりして、大学で「仕事」ができるようになって、社会人をして「仕事」をしているし、専門を卒業した人たちは何かしらの技術をつけて、何かができるようになっている。私はずっと働いてきているが、できるようになったことがない。何もできるようになっていないし、ずっと何もできない。何かができるようになりたいと思っている。何かができるようになりたい、と思うと今しがみついているところをすっきりやめてゼロから頑張ったらいいんじゃないか、とかそういうことばかり考えて、介護士になろうかとかお金貯めて専門学校にいって技術を学ぼうかとか、やっぱり大学に行こうか、とか考える。そのたびに、仕事を辞めることが頭を掠める。生活のためだけの仕事と割り切るにはメモリを割きすぎるし、メモリを割きすぎる割に学べることが少なく、疲れる割に給料が低いからだ。しかし今の私が9-5時で仕事をして得られる金額では一番高いかもしれない。よくわかんなくなってきた。頑張りたいと思っている。頑張りたいと思っているのに、何をどう頑張ったらいいかわからない。

彼氏を見ていると、「考え事」をしないように見える。私のように上の空になって別のことを考えたりしない。彼氏と森の中を歩きながら、体が足の裏全体になったみたいで、足全体で歩いてるみたい、といったら、普段からそうじゃないの?と言われたし、他のオーガナイズされた人たちを見ていても、歩いている時は歩いているし、生きている時に生きている以外のことを考えてはいないように感じた。朝起きて、準備をしてご飯を食べて洗濯をして、自分の手足がどこにあるのかをわかっているように感じる。大阪で友人の家に泊まって、そうだと思ってから、考え事をするのをやめて、手を揉み・擦りながら、次にすることだけを考えながら家を出たら全てがスムーズだった。昔のことや将来のことを考えようとするたびに手を揉み・擦り、現在に戻ってくる努力をする。次の乗り換えのことだけを考える。

今頑張らなくてはいけないこと
・家に帰ること
・家に帰ったら荷解きをして洗濯をすること
・MVの撮影のために何をとるか、進めるべきことを進めること
・夜ご飯を食べること

月曜日から頑張ること
・仕事を9-5で終わらせること。
・締め切りに合わせること

中長期的に頑張ること
・体力をつけること
・仕事中は仕事を終わらせること
・仕事が終わったら仕事のことは考えないこと
・食事をきちんと摂ること
・水を飲むこと
・英語を伸ばすこと


2026/7/3
できるかどうかわからない。何度そうしようと決めたか覚えていないが、やはり何度もそうしようと決める。できるかとかじゃなくて、頑張らないといけないから、やる。やると決める。
しかし期限がないといけない気がする。目標が必要。

明日からすること
・7:30に起きる。
・水を飲む
・朝ごはんを食べる
・5分走る
・本を読むor新聞スクラップする
・9時に出社する
・水を飲む
・仕事中は仕事のことだけを考える
・5時に帰る
・native canmp始める
・0時に寝る

実現したいこと
・やはり大学に行きたい
・脚本をかく
・映画を撮る



 

 

 

 

 

お前の歪な魂の形が見たい

世の中の全てのことはいかに「気まずさ」を回避するか、ということを中心に動いているとさえ思う。
宝石のついた高価な時計、ツヤツヤピカピカのポルシェ、複雑なステッチやフレア・スリット・丈やテクスチュアがレイヤードされた服、手触りのあるザラザラしたファンシーな風合いの紙、香水、虹色のパイナップルヘアー、いろんな柄の肌を覆うタトゥー、12mmのカラコン、鰹出汁、寿司につける醤油、ありとあらゆる素晴らしい映画、あらゆる音楽・絵画、5感で旅行をするフレンチコース料理、脇下やVIOの脱毛、スキンケア、情報誌、ピラティス、世界一周旅行、日記。
俺らという存在はどこにいても何をしていても、どこまでも気まずい。 私が私という存在にとっての替えの効かなさに比べて、世界にとって私という存在への必然性のなさという非対称性が存在する限り、人は悲しく、その存在の維持にはいずれにおいても「死」が必要なのであれば、やはり私たちは気まずさを抱えて生きるしかないだろう。そしてそれでも生きることを続けるのならば、気まずさを回避するということを避けては通ることができない。そしてできれば、「華麗に、見事に」「気まずさ」を回避したい。

数日風邪をひいて、考え事が捗ったのでまとめてみる。風邪はマジで最高。仕事ができないのだから、仕事を休んでも許されるし、寝込んでいてもいい。私が「仕事ができない」ことに正当性ができる。最高すぎます。一生風邪をひきたい。やっぱ嫌かも。頭も痛いし、体も痛いし、咳は出るし、疲れるし。健康が一番だし。

いつまでも考え事や分析ばかりをしている自分はものづくりに向いていないことについて、頻繁に落ち込む。風邪をひきながらそのことをずっと考え続けていた。そしたらスコセッシの「最も個人的なことが最大のクリエイティブなことだ」みたいな格言の「答え」らしきものがわかった気がする、んご。わかってしまった、しまったました☝️

世の中には気まずいことがいっぱいある。
例えば二足歩行は気まずい。歩いている時に手はどう振ったらいいかわからないし、歩いている時の耳は所在がないし、第一どういう顔をしたらいいかわからない。二足歩行は極めて気まずい。歩いている人たちを見ると、左だけに体重が乗っていたり、骨盤が一番後からついてくるように歩いたり、首だけ前に出ていたり、ひょこひょこ歩いたり、やはり気まずそうだ。そして世の中には気まずくない歩き方、というのが存在する。骨盤を立て、踵を一直線上に押し出すようにして顎を引いて前を見据えて歩く。2本の腕は筋肉を余すことなく、優雅に曲線を描く。モデルウォークのことである。かっこいい。元々二足歩行だが?という顔ができる。
あとは、知り合いのいないパーティーで一人で立っているのは気まずい。腕や足をどう収めていいかわからない。ポケットに手を突っ込む、足を組む、気まずさが回避される。食パンだけを焼かずに食べるのは気まずい。トーストしてバターを塗ったりジャムを塗ったり、卵を焼いたりする。気まずくない。
気まずさ、とは「必然性のなさ」であり、「空虚」や「空白」、そして「暇」のことである。


華麗に見事に気まずさを回避しているもの・人はカッコいい。
ピカソ、松下幸之助、ルネラリック、ダミアンハースト、ジェームズタレル、ロンミュエク、ロイアンダーソン、イブサンローラン、マティス、安藤忠雄、石岡瑛子、無限に出てくるのでこれ以上あげないが、彼らが評価されるのはその気まずさ回避が見事で華麗だからだ。


「華麗ではない・見事ではない気まずさ回避」とは「気まずさとの追いかけっこ」に勝てないことである。
気まずいからレースをつけてみる、なんか気まずいから胡椒をふる、なんか気まずいからここに水色を塗ってみる。しかし前提気まずいので、気まずさを回避しようとすればするほど気まずさを呼んで、回避したはずの気まずさの隣に別の気まずさが現れる。創作することはこの気まずさとの追いかけっこだ。気まずさからうまく逃げ切れることが「センス」でもある。

気まずくないこと、というのは「理由に満たされていること」だ。
その存在が理由に満たされ、その存在には必然性があり、その存在を生み出すために、人が何かを殺し食い、クソをし、毎日ゴミ袋にゴミが満たされていくことの正当性のことである。
大抵の場合は、その気まずさを「コンセプト」や「公共性」で回避している。それは時代性を帯びているか?それは資料的な価値があるか?それは社会的か?大衆が求めているか?それはどんな文脈があるか?その価値は普遍か?それは「批評」に値するか?全ての広告や、不動産、プロダクトはそのようにして作られている。

で、スコセッシの「最も個人的なこと」に対する答えはそれを踏まえた上で、
次にあるんでわないか?とおもった。

「コンセプト」や「公共性」は外側から内側の空白を塗り固めようとする行為である。建築である。工事である。どこまでも巧妙に設計し、設定し、間を埋めていく作業を必要とし、計算を間違えばその穴や、欠落を発見することはいとも簡単である。
しかしその実、自分、という存在は理由に溢れている。0から1000まで小数点0いくつまでも理由に溢れている。
私がこう考える、あなたをこう捉える、私は今日何を食べる、私は何が好き。
全てに理由がある。生まれる前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の....話から私が私である理由がある。私がポストイットに文字を書いて壁に貼るのが好きなのは、曽曽曽曽曽曽曽曽曽曽曽曽曽曽曽祖母さんが、山で育ったがはじめて行った海でクラゲを食べてみたことでコリコリとした歯応えの感覚が好きだったから、海辺に住みつき配偶者を見つけたが、海の近くは山と同じように自然の厳しさがあり、子供は12人生まれたが6人は海にまつわる死でなくし、3人は山のコミュニティーの厳格な掟に背いた罪で百姓をして生きていかなくてはいけなくて、そのうちの末っ子にあたる「とよ」は、海への恐ろしさをどこか物語のように思っていて、夜に母と手を繋いで家に帰る時には「海」が足元から忍び寄ってくるような、そんな恐ろしさを抱えて育ち、大人になって隣の家の勘兵衛に嫁いだ。勘兵衛とは家が隣だから馴染みがあり、「とよ」は「勘兵衛」の眉毛と、「海」にももしかしたら負けないかもしれない、という予感を好ましいと思っていて、あとは好ましいか好ましくないか、という考えにも及ばない。「そういうもの」だったから、という理由だけであり、その二人から「いよ」「たま」「にし」「与太郎」が生まれ、、そしてそういう連鎖の果てに私はポストイットで壁に文字を貼るのが好きだ。タイムラインを端折ったのは私がそれを「知らない」からであり、文章を書くならその空白を埋めないと気まずいが、書かれていなくても黙っていてもそこに事実が存在している。描かれていなくても、見えなくても、事実として存在している。そういうことが大事だ。

「最も個人的なこと」というのは、こういう夥しく連なる、お前がお前である理由、を煮詰めて煮詰めて凝縮して、それ以上にはならない、それ以外にはならない、お前はお前のようにしか生きられないし、お前はお前のようにしか作ることができない、お前はこのようにしかあることができないように在ることだと思う。私は私のようにしか生きることができない、これはこのようにしか描くことができない。不可逆に生きていく人間は必然的に時代性を帯び、生きることそのものは政治的であり、社会的だ。「最も個人的なこと」は「最も社会的なこと」であり批評に値する。「最も個人的であること」によって「華麗に」「見事に」「気まずさ」を回避することができる。それはすなわち世界と接続するための方法である。

多分、「創作(クリエイティブ)」とは一人一人の歪な魂の形を愛でることだ。歪な魂の「形」を表すことだ。資産価値や歴史資料的価値だとか、美しいか醜いか、という話ではない。摂取した情報をアレンジして「自分なりに」「カッコよく」生成することでもなく、いつか見た「カッコいいもの」が自分自身であると錯綜して再現することでもなく、こうでありたい自分の姿を装うことでもない。どこまでも歪な姿であることを恥じず、どこまでも自分らしい形を探し当て、のみで削りだす作業だ。トントン、カンカン、である。トントン、カンカン、とは自分をどこまでも裸にすることである。

片方の肩だけ位置の低い立ち方をする人がいる。困った時には自分の顔を両手で揉む人がいる。口を膨らませる人もいる。何にでも醤油をかける人がいる。酢豚という料理の態度が好きな人・嫌いな人がいる。歩いてくる足音だけで誰かわかる。素直でいることが好きな人がいる。隠すことが美しいことだと思う人がいる。本当に誰一人としてみんな歪だ。歪だから気まずい。気まずいから、「気まずく歪な魂の存在」を見て、気まずくなくなりたい。

をれはお前の歪な魂が見たい。

交換日記5:彼女が振り返る頃、そこにもう彼女は存在しないこと

2026/5/11
ゴールデンウィークは寝込んでいた。
別に大したことはない。人と連絡を取れないだけだし、世の中のありとあらゆるものに触れたくないだけだし、物事ひとつひとつが大きなノイズになって布団のテクスチュアでさえ騒がしく感じるだけだし、なるべく部屋を暗くして耳を塞いで2-3日眠り込んだら治る。で、治った。久しぶりに晴れて、眠り込むのに飽きたから起きた。そういうものなのかしら。もしかしたら鬱じゃないかも。ただ怠惰なだけなのかも。恋人にはその間あまり返事を返したりできなかったから申し訳ない。寂しい思いをさせていたらごめんね。寂しくないよって言うけど、カッコつけたいからだと知っている。恋人はお姫様だからお姫様みたいに扱わないと拗ねる。拗ねてるのに優しくしようとしてるから可愛い。私もお姫様だから、人に優しくできないのに優しくされたくて、それで恋人に怒られたりする。上司にも「自分のことばっかり」と言われたから、私って自分のことばっかりなのかな、と考え続けていたら鬱になってた。しょうがないよね、人のこと考えてなかったんだから、落ち込んでアタリメーダのクラッカー。ムカムカした時は自分のことばっかり考えてるからだ、と思うことにした。

4月後半からあまり日記を書いていなかった。エッセイの締切と誕生日が重なったからそれに合わせてずっと文章を書いていた。うんこし続けるとうんこ出なくなるんだな。別のところにうんこしてるからここにうんこしなくて良くなった。でも書いていないうちにどんどん忘れるから、ここ一ヶ月のことはあまり覚えていない。

なんか、最近知り合った人の2人分のカロリー高い人生の話を聞いて、それで生きるってすげぇな、やっぱり誰一人として変だな、と思ったんだよな。本当にみんな変なのだろうか。自分の周りに変な人が多いのか、それともみんな変だけどあまり他人の数奇な人生について思いを馳せたり聞き出したりしないから変なことに気づかないだけなのかな。でも聞き出しても聞き出しても面白くない人はいる。面白い、面白くないってなんだろーーー。

家に帰ったら親友から誕生日の手紙が来ていて、やはりお手紙って届いたら嬉しいものだなと思ったけど、遅すぎるから腹立たしい気持ちになった。とはいえやはりお手紙は嬉しいから、えへへ、となって許そうかな、と思った。来年も忘れていたら許さないかもしれない。許すかもしれない。許すってなに?許さないってなに?

お手紙のことを考えるたびに、人のことを好きだと辛いことが増えるな、と思う。
好きなの好きなの好きなの、だから嫌いなの。一挙一動が私に影響を与えてくる。
返事が何日帰ってこない、誕生日のお祝いメッセージがこない、とか、とか。他の人だったらそんなこと一切思わないようだ。他人のことはどうでもいい。でもあんたはどうでも良くない。どうでも良くないの、だからむかつきます、と。

2026/5/12
どうやら風邪を引いた。
体が重い。昨日は早く寝た。早く寝たから早く起きた。2時くらいに目が覚めて気まずかった。恋人に送った7通くらいのメッセージへのレスポンスが一つもなく、一言だけ仕事がうまくいったというメッセージが来ていた。起きてもしょうがないのでまた寝た。5時に目が覚めてメッセージをもう一回チェックしたけどそれ以降きていなかった。寂しいの、といえない私は可愛い。大丈夫大丈夫〜という顔をしてしまう。多分言ったほうがいいけどいえない。どうして〜?

2026/5/13
寂しいからと言ってぷんぷんするのは良くない。ぷんぷんすると、みんながぷんぷんする。みんな怒られたくたいものだ。そっけないからと言って、そっけなくしてはいけない。そっけなくされたらみんな悲しいものだ。そっけない、というのは勘違いであることが多い。そっけなくしたつもりなんてないよ〜💦でもそっけなかったんだもん、寂しかったんだもん、ぷんぷん、である。ダメである。なので、ぷんぷん、としたときには、ぷんぷん、の方を見てはいけない。自分が一番最初にどう思ったのか、を発見する必要がある。大抵それは「寂しい」「不安」「悲しい」だ。恋人にわかってもらいたい、と思う前に、私が私のことを分からなければいけない。ぷんぷんした私の気持ちは私にしか分からないのだから、それが他人にわからなくても他人は悪くない。「悲しかったの、をまず受け入れて!」とぷんぷんする前に、自分に「寂しかったの、そうなの、寂しかったねヨシヨシ」と抱きしめて上げることが大事かもしれない。と気がついてから、恋人からそっけないメッセージが来ても、素直に「寂しいから抱きしめて」と言えるようになった。偉いから褒めて欲しい。友達に話したら、偉い、と言ってくれた。嬉しい。

2026/5/22
面白いことも面白くないことも平等に忘れていく。さっきまで話していた友達との会話が興味深くて感心しても、それを友達に説明しようとすると話の流れをうまく説明できなくて、愕然とする。
最近は面白いことは2つあった。その時の衝動のまま書き残しておかなければ、と思っていたのだが、日記を書く時間が取れないまま3日くらい経ってしまった。「時間がない」といつも思っている。時間がないということを言い訳にしているのではないかといつも自責の念に駆られていたが、最近は「本当に時間がない」のではないか、という疑念が明らかになりつつある。私の創作が捗らず、何年経っても人生が思うようにいかないのは、実は本当に時間がないからだったのではないか?「時間」のせいである場合、それは構造の問題なので、解決しなければいけない。じきに私は解決をしようと思っている。

見ず知らずの他人と能動的に予期しない出会いをするのが好きだ。休日に「誰かに出会おう」と決めて家を出る。友人との親交を深めるわけでもなく、ただ見ず知らずの人間と出会う瞬間を求めて世間に出没する。カフェや道端や本屋など。それは居酒屋やバーであってはいけない。酒を飲んだ人間たちが出会うのは間抜けだからだ。見ず知らずの他人を純粋な好奇心だけで正体を明らかにする瞬間が好きだ。個包を開ける感覚に似ている。見た目では他人のことを計り知れないから、一枚一枚包装を剥がしていく。この作業は繊細な操作が必要になる、距離感を適度に調節し、境界を溶かしていく工程が必要だ。限られた時間で必要な音をとる必要があるインタビューのように、相手にとって心地の良いリズムを保ち、無駄なくスマートに全てを脱がす。距離感を推し量る確かな感触とそれを相手に悟られてはならないという緊張感がスリルを読び、ついに正体が明らかにされたとき、達成感と、見知らぬ他者というデータに対する知的興奮を覚える。

5/24
同僚に誘われて出張で熊本に訪れた。会社が実装を担当しているデジタルコンテンツのワークスアーカイブのための撮影が名目だった。熊本市内で夜撮影を済ませ、それが終わると馬刺しを食べ、ほろほろと酔いながら同僚たちと
市内を散策する。初夏の夜風が涼しく、金髪のほつれ毛がサラサラと顔の前に揺れる。熊本に訪れるのは2回目だ。前前職のテレビの仕事で、取材で行った。市内を走る路面電車と商店街をみて、以前に一度きたことがあると思い出した。誰に会いに、何を撮りに行ったのか、一つも覚えていないが、確かちょうど熊本地震の頃だった気がする。それか大雨で洪水の日だったかもしれない。何かしらの自然災害のニュースでもちきりだったことだけは覚えている。上司と感じの悪いディレクターと皆で食事を摂った後、悲しい気持ちで人気のなくなった時間に一人で商店街をうろうろとしたのを覚えている。市内を一泊した後、二日酔いのまま軽の4人乗りの車で後ろにぎゅうぎゅうと荷物のように積まれて阿蘇山脈をドライブする。はじめの山道は木々に囲まれたクネクネとした坂を上がったので車酔いで吐きそうになったが、そこを抜けるとなだらかな芝ばかりの生えた山肌がちょうどお盆のように阿蘇を囲んで連なり、幸運にも晴れ渡った空と勢いの良い初夏の緑が広がった景色に目を見開いて、吐き気を遠ざける。カルデラは火山灰で木がはえず、芝生のようにブタクサや稲科の草が地表を覆う。福江島の鬼岳山のことを思い出す。ぽっこりと山が島の端に聳え立ち、山を撫でるように風が吹いていた。その日から心の国に鬼岳山がずっと聳えている。それもテレビの仕事で行った。風力発電の解体の取材だったと思う。魚が美味く、貸切タクシーの料金が7万8万と上がっていくのを見ていた。夜にはカラオケに行って私は歳をとった上司のために赤いスイートピーを歌って、ディレクターは聞いたことのない邦楽を歌っていた。私はほとんどの邦楽は聞いたことがない。ホテルの向かい側には教会があって、夕焼けの赤紫の空に十字架が佇んでいた。だからお祈りをしたのだった。これは私の記憶ではない。私のiphoneのカメラロールとメモ帳の記憶である。
阿蘇山をドライブした後、空港へカメラマンのパートナーを送り届けたあと、カメラマンの地元へ向かう。あまりどこへ向かうのかもわかっていなかったが、目を回しながら車の荷台に詰められて、拉致のように大分の知らない町に連れて行かれる。阿蘇の開けた山道を過ぎると、典型的な山奥の、ダムがあり針葉樹ばかりが生えているようなクネクネとした道が続き、いよいよ私は胃のなかのものを全てゲロゲロと吐きだしてしまった。予測はしていたので、コンビニのレジ袋にゲロベロと吐きだす。朝食べたバナナ、コンビニで買ったフルーツ、カフェで飲んだジンジャーエール、ついさっき食べたバームクウヘンが胃液と混ざり合ってミックスジュースのように出てくる。私はミックスジュースを作ります。前の席で同僚とカメラマンはウエエエエという声を聞いて窓を開けてしばらく黙る。しばらくするとお構いなく話を続けた。紅茶味のバームクウヘンの香料の匂いが袋からした。ローソンで買った。昨日食べた馬刺しが入っていないか探したが、肉は12時間で消化するのだそうだ。ゲロを終えてスッキリとした顔で「馬刺し入ってなかった」と前の二人にいう。昔電車で傘にゲロを吐いていた終電のサラリーマンの話をして、コンビニでゲロを捨てた。さようなら私になるはずだったものたち。さようならグレープフルーツ。さようならバームクウヘン、さようなら、さようなら。

鮎が放流され川釣りが解禁される日を祝って花火大会が行われるらしく、町に着くと、カメラマンは「祭りの匂いを嗅ぎに行こうぜ」と言い、出店の集まる駅前や、繁華街のコンビニなどを車でぐるぐると回った。祭りに対する思い入れの違いにびっくりする。学生の頃は他校の子やクラスの違う子と話たり遭遇する危害が祭りしかなかったから、今でもその頃の同級生などに遭遇するのを楽しみにしているのだという。夏祭りか、と遠い目をしてしまう。花火だからと、カメラマンの兄は友人たちを集めてBBQを催し、あっという間にテントを立てたり炭が焚かれ、子供達が走り回り、BBQが始まる。後から思い返してかくときには「訳もわからず」と形容しているが、実際には私は空気のようにその時間の上に乗っかり、驚きもしなければ不安にもならず、そういうもんか、と思っている。こういう「動じなさ」は小さい頃に身についたと思う。

見ず知らずの他人と予期しない出会いをすることが好きなことと同じくらい、予期しない場所や予期しない状況に巻き込まれるのが好きだ。
自分はインドアで体力がなく、旅行を計画したり、観光地を巡ることにも、友人を誘ってどこかへ出かけるということも得意ではなく、能動的に自分のお金を使ってエリアを出ることを計画する時は、自分の人生に必要不可欠であると判断した時だけである。家出をしたときや、仕事を辞めたときや、ロンドンに行ったこと以外には、基本的には自転車で一人で行ける場所に自分の意思でいくこと以外にはない。理由は明快でお金がかかるし友達がいないし、世界に興味がないからだ。見てみたいものや行ってみたいところや食べてみたいものもないことはないが、それらの体験が人生で一度も訪れることがなくてもどうでもいい。
予期せず巻き込まれることにはモチベーションも要らなければ、正当性やコンセプトを作る必要がなく、金銭的にも体力を削られることがなく、世界の亀裂に遭遇することができる。例えば出張にいくこと、転勤をすること、他人の旅行についていくこと、他人の家に上がること、関係のない家族のバーベキューに混ざること、船に乗ること。予期せず巻き込まれ、出会うはずのなかった人やいくはずのなかった場所を念入りに観察し、聞くはずのなかった他人の話を聞き理解しようとする。そうすると満たされる。好きか嫌いかではない、受け入れて正当性を持たせていく。受動的に世界の亀裂を受け入れ、亀裂と同化し生き延びる。生き延びる瞬間が好きなのかもしれない。

BBQをしながら子供たちと遊ぶ。4歳と8歳の男の子と女の子で、二人とも驚くほど大人びた表情をする。敬語を使う。いきなり遠くを見る。甘えたいという気持ちと、遠慮する気持ちがせめぎ合う。
「お母さんとお父さん、結婚してないからね」
「明日も遊ぼうよ、好きな子とデートなの、可愛くしていくの」
「お姉ちゃんも好きな人いる」
「付き合ってどれくらい?」
「今4ヶ月くらい、ようちゃんは?」
「今1ヶ月くらい」
「ほやほやだね」
集う人々は皆傷ついた顔をしている。誰一人としてそれに気づいていない。家庭は皆壊れ、誰一人として「完璧」な育ち方などしていなくて、それが「普通」で「平凡」で、そして「仕方のない」ことだと思っている。ただ傷ついたことを知らないふりをして、仲間の前では気丈に振る舞い、仲間をよろこばせることを演じる。演じているとも気が付かないまま、皆が「振る舞い」をする。悲しくて仕方がない。大丈夫だよ、と言いたい。大丈夫大丈夫。お母さん、大丈夫。おばあちゃん、大丈夫。お父さん、大丈夫。ようちゃん、みぃちゃん、大丈夫、大丈夫。

子供達をクルクルと回す。高いたかいをする。追いかけっこをする。手を繋いで歩く。芝生で一緒にハグをしながら花火を見る。大丈夫、大丈夫。君たちは大丈夫。

悲しい気持ちでいるならば、良い景色をたくさん見るといい。たいした景色でなくて良い。美しい光を集めると良い。心に町を作っている。美しい光の窓が町に灯る。ぽっこりとした芝生の山が立つ。大きな風の発電機がぐわんぐわんと回る。黄色いライトのミュージックバー、壁が緑の映画館。自分の町を、心の中に作るんだよ。

ねぇ、ようちゃん、みぃちゃん。生きたいか、生きたくないか、それが大事だよ。夢を持つといいよ。生きていける。


交換日記4:彼女が振り返る頃、そこにもう彼女は存在しないこと

2026/04/05
「嘘をついても何の得にもならないのにエンターテイメントのためにしれっと嘘をついたりする癖があるよね」と言われてその通りだったからゲラゲラと笑った。何の得にもならないのに何故かいつも面白おかしく話してしまう癖がある。だから当の本人は「愉快なキャラクター」に閉じ込められて余計に心の奥底を話すことができなくなっていく。それでも私にはバームクーヘンのように「層」があるから、どの「層」でも人と話すことができる。どの「層」も私だと認められるようになった。なので誰と話しても「寂しく」はなくなった。
友人に「あなたはとても面白い。」と言われ、私は私を面白いと思うが、それが他人にとってどう「面白い」と見えているのかわからず、しかしその面白さを人がメンションしてくれることが多いから、自分のことをよくわからないが人は私のことを面白いと思っているらしい、と認知している。その面白さは多分、私の「自由なおしゃべり」に起因していると思っている。

恋人とは、やはり深淵の話はできない。だから、少なくとも恋人はそういう私の「おもしろさ」を理解していないのではないか、と思う。私の好きなところを聞いたら「夢があるところだ」と言っていた。夢がある、ってどういうことだろう。夢がある人なんていっぱいいるのに。「面白いと言われる方が嬉しい」と言ったら、あまりピンと来ていないみたいだった。

私が他人へのネカティブな分析を披露し、それでもその人を尊敬していることや敬愛していることを話したら、恋人は少し困惑した顔をしていた。「今のところネガティブなキャンペーンしかしていないから、あなたがその人を尊敬する理由がわからない」と言われた。まずはじめに、確かに〜。(後から会話を思い返すと私はいつも他人へ公平に情報を与えていない。普通にストーリーテリングが苦手。)私は人のネガティブなところを見つけ出してそれを分析することには長けているが、その人のポジティブな部分については分析せず、その良い部分をある程度「ガバガバ」に愛している気がする。良いところも悪いところも人にはあるから、ネガティブなところを見つけたからと言ってその人のことを嫌いになるわけではない。が、ネガティブキャンペーンはする。私の性格が悪いのかな。私の性格が悪いのかな〜と考えあぐねる。

恋人はとてもまっすぐな人だ。 「役割」を満たしているか、満たしていないか、自分にとって害があるか、ないか、それが「好き」かもしくは「嫌い」か。いさぎが良い。迷いがない。私のようにウジウジしていない。良いところもあるし嫌いなところもあるんだよね、とか言わない。嫌いなところが嫌いなら嫌いだし、好きなところが好きだったら好き。だから、「〇〇は仕事ができないから嫌いだ」とか「〇〇は努力をしないから好きじゃない」とか、そういう明確で迷いのない判断基準を「性格が悪い」のではないか、と思ったこともあるが、性格の良い・悪いも角度の違いだから、性格が悪くないとも言えるし、良いも悪いもない、とも言える。判断基準が社会規範に沿って明確だ、そしてたまに人間らしくダブルスタンダードがあり、彼の尺度において機能しているか、していないか、だけだということだと納得してからは、深淵の話ができるかできないか、人をグラデーションで愛すか愛さないか、という個体差がそこまで気にならなくなった。一時は好きであることに迷いが一瞬生じたが、今はやはり好きだ、と結論づけている。多分その潔さが私に安心感を与えていると思う。

2026/04/07
恋人には話さない話を友人たちと話すことに後ろめたさを感じていた。私がそういう話を異性や同性でも構わずマンツーマンで話すことが、浮気に当たるのではないかという不安をずっと感じていた。なぜならインスタやティックトックの恋愛コンテンツを見ていると、恋人以外と飲みに言ったら恋人が嫌がるから、そういうことをしているのは「気持ちが悪い」というようなことを、男性に諫めているコンテンツなどが溢れており、結構びっくりする。コメント欄でもそういう行動を非難されることを大人数が肯定しており、自分が非難されているのではないかと不安になる。恋人を不安にさせたくはないが、私は多面的な人間で、多層的な人間だから、ひとりの人間がそれを受け止められるという期待はハナからしておらず、だから多数の人間と、多数の話をしたい。ドキュメンタリー映画の話しならAさんに話したいし、美術の素晴らしい映画ならBさんに話したいし、絵画の話しならCさんに話たい。抽象の話しをするならDさんがいいし、美味しいご飯を食べながら社会の話しをしたいならEさんがいい。ニッチなコメディリールならFさんに送るし、という具合に、話題と役割によって話す相手を変えている。どれも楽しいし、どれも大切だ。知識欲への高揚感を毎度感じるが、それは恋愛感情とは違う。(と思っている。というよりもそれを棲み分けるべきだ、と最近思うようになった)
もちろん、その話を恋人が全部できるなら、そんな完璧なことはない、と思うが、そうでなくても良いと思っている。けれど、そう思っている一方、それを担うのは恋人であるべきだ、という社会的な規範(のように思える)が私にその行為をうしろめたく思わせている気がする。

友人とご飯に行く間、ご飯の後、恋人は少し怒っているような、イラついているような様子を見せているきがして、やはり自分はその行動を控えるべきか、控えなくても良いのかを迷ってしまう。事実は、そいういう迷いを私がしていることが、彼を不安にさせているような気もする。それとも、その後ろめたさがあるから、私の認知が歪んで、彼が不安に思っているに違いない、という「勘ぐり」をしている可能性もある。

友人にそのことを話したら「聞いてみるしかないよね」と言われ、それはそうだと思った。
なのでタイミングで聞いてみる。

2026/4/12
「君は自分のことしか考えていない。人の気持ちを考えなさい」と立て続けに違う人から言われた。新しく配属されたチームの新しい上司と、恋人から。人のことを傷つけていないか、不安にさせていないか、嫌な気持ちにさせていないか、いつも考えているが、どうやらそれは人のことを考えるとは根本的に違うようで、「人のことを考える」とはどういうことかを考えてみる必要がありそうだ。

恋人に怒られた。異性の友達と会っていたことを黙っていたから、自分がされたらどう思うかと聞かれ、私なら不安になると言ったら、どうして自分がされて嫌なことを人にするのかと問われた。不安にさせたくなかったのだ、と言ったらかぶりを振って自分がされたら嫌なことを人にもすることが理解できないと言っていた。結局僕のことなんて一つも考えていなくて、自分のことばかり考えているんだ。恋人は多分私よりも「仕事」ができるから、恋人の言うことが正しいかもしれないと思って理解してみようとしてみる。

失望された気がして、愛は恐ろしくて、彼のことを考える間、涙が止まらなくなった。愛は恐ろしい。泣きながら眠り、よく寝たら元気になった。休息や睡眠が足りないと不安になる。今の心の平穏は私の内面から湧き上がるものではなく、生活の習慣や金銭など外的な要因で成り立っているのだと知る。貧しくなったとき、戦争になった時、愉快な人で二人とも居続けられるのだろうか。

2026/04/20
代休をもらい4連休を取った。毎日13時まで寝て、ブルーベリーとバナナとヨーグルト、たっぷりのサラダ、玄米、タンパク質などを取っている。カフェに行って原稿を書く。恋人や友達と電話をする。本を読む、映画をみる。豊かだ、と思う。