影をひろいあつめて

毎日一言日記

交換日記7:彼女が振り返る頃、そこにもう彼女は存在しないこと

2026/7/3
自分との交換日記を初めて、気がついたら半年経った。
半年間あっという間に過ぎてしまっても、この日記のおかげで自分は何をしていたんだろう、と不安になることもない。自分についてわからないことはまだたくさんあるが、色々なことをダイジェストして、新しいことがわかって、半年前よりもずっと骨が太くなったと思う。大幅なOSの修正があったから、私は今全く新しい私である。そんなふうにずっと変わり続ける自分のことが好きだ。その書き始めを新しい章にできたことを嬉しく思う。

 

掌を擦り離す道標 ハーデスを抜け光の出口

交換日記6:彼女が振り返る頃、そこにもう彼女は存在しないこと

2026/6/1
誰もが面白い人間なのだとみなが気がついてしまったらどうしよう。口を開いたら面白くない人などいなくて、みなが奇妙で愉快なのだ。と明大前駅で井の頭線を乗り換える人々の波を迎えながら皆の顔をジロジロと見ながら想いに耽る。村1個分くらいの人がゾロゾロと階段を上がり、全員が違う顔や身なりをしている。この人たちがみんな変なのだ。だからみんながおしゃべりを始めたのだ。YouTubeを見たら信じられないくらいたくさんの人が話をしていた。本人たちにとってはかけがえがなく、同時に瑣末なことを垂れ流していく。あまりにも喋りすぎだと思う。なぜそんなにみんな喋るのだろう。

2026/6/2

内向的な小指、まきがたの肩と鎖骨。
天使の羽は重たいから、天使に姿があったらそれはきっと猫背をしているね。
じゃあ私たちの丸まった背中はきっと天使の名残だね。

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2026/6/3

日々が流れていくと死にたさがます。こんなことを言うとまた病んでいるのかと思われるだろうからあまり言わないほうがいいだろう。考えなくてもいいことは考えない方がいいのだ、と言われ、だからあなたの作るものには心がないのね、と思った。考えなくてもいいことを考え続ける。明らかにしなくてもいいことも全て知りたい。地面を這いつくばってアリが行列をなすのをいつまでもみたい。どうして空は青いの?どうして好きなの?愛ってなに?優しいってなに?どうしてはなんで?何はなぜ??靴は履きたくないし、髪の毛を切るのは緊張する。私はだれ?あなたは誰?ここはどこ?目がキラキラした大人はやばいらしい。私は目をキラキラさせた大人。やはり腹が立つことがいっぱいある。そして「正しく」したいと思う。美しくないものには腹がたつ。


2026/6/4
愛おしい友人だちは皆毎日、毎日を積み重ねていて偉いと思う。女優を目指す友達、詩人の友達、歌人の友達、美術監督をしている友達、監督の友達、みんな毎日毎日仕事をこなし、できないこともできるようになって、どんどん前に進んでいる。ストーリーズや日記にぶつぶつ喋ったりしないで、できることをできる範囲でできる限りにやっている。一方私は本当に何もやっていない。毎日投稿していたストーリーズも最近はバカらしくなってあまりあげていないし、映画もあまり見ていないし、本も読んでいないし、美術展にも遠くてあまり出向けていない。たまに絵を描くくらいで、描いても仕方がないような絵をかく。出かけるのも遊ぶのも億劫だから人とはほとんどあっていない。平岡さんと親友と恋人くらいにしか会わない生活をしている。自分の将来が不安になる。漠然と、ではなく、明確に、不安だ。身一つでお金にできることが一つもない。私は私で毎日一生懸命生きているけど、頑張っている人よりも頑張っていないから、自業自得だと思う。どうしたらいいのか。どうしたらいいのか。

恋人に「ちさは自分のことを主人公だと思いながら生活しているか」と聞かれて、自分のことを主人公だと思えたことはないから困惑した。会社の人に聞いたらみんな間発入れずに「そう思っている」と言われて、さらに困惑した。親友からも主人公であるために、という話を以前された。(手紙では私のことをあなたは主人公だよ、と励ましてくれた。ありがとう。)今とっている脚本講座でも主人公であるために、という話をよくしている。目のギラついたちょっと恥ずかしいラッパーも、自分のことを主人公のように思いなさい、とインスタで話していた。脚本家は心を鬼にして主人公に試練を与えるのだという。もう一人の親友に話したら、自分も他人も全部パラレルな自分である可能性があるよね、という怖い話をしていた。いろんな映画があるから主人公だからと言ってハッピーエンドが待ち構えているわけではない。監督の友達に話したら、人生のモチベーションの話だと思うよ、と言われ、なんとなく納得した。身に起こる出来事も、映画のためのシナリオだと思えばすぎた時に面白い物語になっているよ、という話だと思う。身に起こる出来事を出来事のたびに楽しみ、挫けそうな時にも前に進むためのおまじないだ。

2026/6/5
他者の自意識に気持ち悪さを覚えるのはなぜだろう。
他者の在り方に口を出したくなってしまうのはなぜだろう。

2026/6/7
他者と関係をすると、自分の猫背で毛の生えた背中を見ることになって辛い。他者と関わることがなければ、自分の醜いところや美しくないところを見ずに済むし、自分からも他人からも醜いと思われたくはない。だから一人でいたのだと思う。恋人が金沢に来てくれている間、私は多分「感じ」が悪かった。「俺が悪いのか?」と聞かれ、誰が悪かったのか考えあぐねる。後から考えてみれば全て私が悪い。発端は大したことではない。繰り返される彼の悪意のない言葉に私の認知が傷ついてしまい、人には人の苦労や悲しみがあるのに、彼の一面ばかりを見て、それを羨んでしまう。彼が持っていることと、私が持っていないことは、彼のせいではないのに、比べても仕方のないことをいつまでも比べてしまう。そして彼の快適さを損なってしまった。明るく、素直で、子供のようで、理にかなった彼に、惨めな気持ちになってほしいと願ってしまった。他人の幸せを願っているようなことを言っておきながら、本当は他人の幸せが許せないのだと思う。私はこうやっていつも他人の足を引っ張っている気がする。最低だから落ち込む。私は彼のことが好きなはずだから、彼の一番の理解者でありたいのに、私のトラウマがいつも私を惨めの沼に引きづりこんで邪魔をする。助けてほしい。私に銃口を突きつけてくる私を殺して私は楽になりたい。私は温かく大きく優しい人間でありたい。何もかもを包み込めるくらい優しい人間になりたいのに。

2026/6/8
彼と長く過ごした後は大抵息が浅くなる。自分の不愉快さを表現して彼をマニピュレートしようとしたり、駄々をこねてみたり、私のその姿は醜悪で目の当てようがない。そのような振る舞いをした後には思考がぐるぐるとして、彼に値しないのではないか、彼に見捨てられるのではないか、と考えては生きる価値がないようにさえ感じる。私は、私で、私の人生や価値は他人に支配されたり他人に左右されたりするものではなく、私は私に対して私の尊厳を守る義務があり権利があるのに、私はそれをやすやすと手放してしまう。お互いが完璧ではない人間であり、私や彼の人生の価値を私や彼が決めるものではないはずなのに、私は彼の持つものに圧倒されて全て正しいかのように思ってしまう。それを理解すれば私の問題が解決するのだ、と高く見積もっている。誰であっても私を救うことはないと心の底から納得しなければいけないと思う。冷たさとしてではなくて、いい意味で諦めたい。なぜなら救われたいと思う限り私は惨めの沼で針の筵に立たされ、相手にもその針の筵に立ってほしいと願ってしまうからだ。それは彼の腕の中で安心して眠りたいという私の中の救われない小さな女の子がする彼への期待の大きさである。お父さんになって、抱きしめて、私はお父さんがほしい。しかし、私の小さな女の子の期待とは無関係に、彼は若く、「持っている者」であり、それが故にたまに想像力に欠けて、デリカシーがない。そして高慢で、常に「正当でありたい」という「弱さ」がある。それは私についても同じで、私も彼も同様に一人の人間として当たり前の未熟さを持っている。それは事実として存在している。だからと言って彼にはたくさんのいいところがあり、私が彼を愛おしいと思うのは、身分やステータスみたいなつまらない話ではなく、彼の物事の見え方や自分自身でのあり方や諦めないところや話し方や豊かな抱きしめ方で、だから私は彼にとって安心できる人間でありたいと願っている。だから努力をしたいし克服したいと思っている。彼の裁くゲームの上で合格点を取り、彼のゲームにおいてのトーナメントにいる権利を手にいれようとすることではなく、私と彼がいることが未来にとっていいことだとお互いに思える存在でありたい。

2026/6/9
私が願ったからこの世界に存在しているのだと思うと見てきた全ての光が愛おしい。あなたもあなたもあなたも、私が出会いたくて出会ったのだ。私が存在したいと願ったから、あなたに出会うことができた。

2026/6/10 せめて言葉ばかりは正直で
行動が大事だ、という。言うばかりではなく何をしたかだけが大事らしい。行動が伴っていないなら言葉は嘘だと言うが、本当は行動が言葉に嘘をついている思う。優しくしたい・なりたい正直な気持ちに、行動だけが嘘をついている。愛したい、愛せる人になりたい、という素直な気持ちに行動だけが嘘をつく。大切にしたい・大切だ、というありのまま気持ちに行動だけが嘘をついている。

2026/6/14
コピーライティングはグラフィックだという記事を読んで、なるほどね確かにね、意味や音だけじゃなくて、見た目のリズムも大事なんだなと知ったのが先週。ここには何にもないから仕事ばかりをしていると将来が見えなくなる。将来なんてどこにもないような気持ちになるから、なるべく残業をしないように帰宅するようにしていて、
仕事終わってからは家に帰って携帯の電源を落として家にある本を読む生活をしている。片っ端から開いて1行読んで、別の本を開いて、1ページ読んで、写真集を開いて、まるでガキのように注意散漫に紙を撫でる。ツルツルとしてスロット縦スクロールの刺激からフィジカルに戻るためにはリハビリが必要だ。20連休を取った。仕事から少し距離を置いてみたい。辞める、とかじゃ、なくてね。最近短歌と詩に興味がある。生きててどのタイミングで詩を書こうって思うんだろう。詩ってどうやって書くんだろう。平岡さんが貸してくれた詩集には「舌」を世界との「インターフェース」だと再発見し、「舌」ってすげえんだぜ、ということが書かれていて、「舌」ってすげえ、と思った。だから詩はすごいなと思ったけど、詩というものを自分が書くとしたら、何を書いたらいいんだろう。

足りていたり、足りなかったり
するから、美しくても、
悲しそう

なに してる かな
かぶりを振る。
眠るしかないね
メッセージはどうせ届かないし

2026/6/15


小立野のぴゅうとあたし あし漕がなくても 前髪がハハハ

 

あおというええという目はあわないようにね 隣歩いていたくなってしまう

好きな人ができたんだ お幸せにね
せめて言葉ばかりは私に正直で

2026/5/16

花が咲く「さようならの季節だね」という そんなことがあってたまるか

2026/5/17
短歌の1日1首初めてみたが、「それっぽいもの」が永遠と生まれていくだけで、いくら詠んでも虚しい気持ちになる。何が足りないのか。絵を描いていても映像を作ってもずっとこの気持ちが消えない。小手先でいつも描いたり作ったりしている気がする。何かを言っているように御託を並べるのが上手い。賢い人にはバレているから恥ずかしい。プロジェクトは始めるまで腰が重いが、始まってしまったら早いもので、意外とすんなりと進んでいく。結局他人と自分の境界の問題だといつも思う。エイヤ、はいつどこにいても疲れるし勇気がいる。例えば遠いところに住む恋人に会いに行くこととか。

恋人に会いにフィンランドへ行く。友人たちにはお金持ちだね、と言われた。有給を10日間くらい取ったから、贅沢やね、羨ましいと言われた。恋人に会いにフィンランドに行きます、はおしゃれだと言われ、首を捻りそうになる。なんでだろう、気が狂ったように働いたお金を無駄遣いしないでコツコツ貯金しただけで、有給を1日も取ってなかったから日数が残ってるだけで、お金は別にないし、普通に来月の引き落とし額を考えると胃がキリキリするし、国が変わるだけで生活はどこでも変わらないし、実際は群馬みたいな場所だから全然ロマンチックじゃないし。直前まで行くか行かないかずっと迷っているし、ここでトンでも誰にもバレないし、向こうも本当はそれがいいと思っているんじゃないかと思って、飛行機をキャンセルしてブロックしてしまおうかと気の狂ったアイディアに取り憑かれていたが、そんなことも知らない恋人にはお金がかかるな、とボソボソと言われて、じゃあ行くのやめようか?と言いかけて、しかし口をつぐんだ。彼は正直だから私にきてほしくないの?と聞かれたら、口をまごつかせて、その仕草に他意はなかったとしてもそれに対して、余計に私の気持ちをナーバスにするだろうと想像ができた。早く会いたい、という私のメッセージに俺もだよ、という返事がないだけでナーバスになるのだから、明らかにしてみていいことなど何もない。そんな心配などどこにもなく、あっけらかんと私は私のやりたいことをやって、それがあなたも嬉しいでしょ?という態度をし続けなければいけない。それがチサだとみんなが思っていて、みんなにはない「自由さ」だと皆が思い、そんなチサのことを皆が好ましいと思っている。だから私はそのように話し、そのように行動する。

でも確かに私も羨ましい。2年前には人生のためでもなく出張でもないのに長距離移動をするなんて考えられなかった。有給はおろか休日も存在していなかったから、2年前の自分が見たら羨ましすぎてゲロ吐いてたと思う。インスタ上の知らない人は「顔だけで生きてきた元ジャニーズが人生半ばになって自分の薄っぺらさに気がついて人生どん底、努力してみんなを見返したい」と言っていて、おーがんばれーと思うけど、見返されてたまるかとも思う。こちとら27年間も努力し続けてもいまだに何にもなってないんだから今まで顔で得してきた人間が少し頑張ったくらいで世間を見返したらおかしいからだ。しかしこういう了見の狭い考え方は自分の首や周りのことも行きづらくするだろうからやめたいと思っている。フライトの前に考えるようなことではない。普通に、楽しめるように気楽に行こうと思う。

旅券を片手に人を羨む暇があるなら1ページでも読書と言い聞かせる

願ったから存在しているのだと思えば見てきた全ての光が愛おしい。


短歌難しすぎますゲロゲロゲロ

 

2026/06/18

港と名のつく場所には光が溜まる1人で眠る国と国の狭間で

港に光が溜まる国と国の狭間で1人で眠る

みなと ひかり くにと くにの はざまでひとりねむる ひえたべんち


2026/6/19 (6/18)
羽田を出たのが朝の7時で、12時間飛行機に乗ったら15時についた。恋人の住む場所までいく列車に乗り込む頃には日本時間の0時過ぎだから19日のはずだが、しかし私はまだ18日にいる。飛行機に乗るたびにいつも、どうして移動しているのに時間が戻るのか、行ったまま戻ってこなければ、人よりも1日が増えたまま生きていけるんじゃないか、と思う。昨日の国と今日の国を一本線のリボンみたいに広げたら昨日と今日になるのは面白すぎる。AからBの間には7時間の時差があるから7時間の移動でつきそうなのに、12時間かかるし、12時間かけて移動したら7時間戻っている、マジーーック🪄
どうして時間は同時に進んでいるのに時計を分ける必要があるんだろう。どこかの0時はどこかの夕方で、どこかでは朝ではダメなのか?

座っているだけなのにお腹は空くし、移動は疲れるし、ヘルシンキ空港について換金してから食品店に入ったら不味そうな惣菜コーナーを見て一昨年のロンドンでも悪夢のような日々が一気に蘇ってきて、やはり忘れていることなんて何もないのだと気が付く。圧縮されて端っこの方に追いやられているだけで、ふと階層に迷い込んだ表紙にポンと飛び出て思い出させてくる。思い出はびっくり箱。人々の玉ねぎ臭さとか、香水の匂いとか、地球はどこまでも繋がっているのに、歩いている人の背丈も肌の色も髪の毛の色も違うのは変。

何せ長いフライトだったのでドラマをしこたまダウンロードして行ったが、コンセントが見つからなかったせいでフライト前の時点でかなりバッテーリーを消耗していて、ipadは仕様のバグのせいで、有線イヤホンを入れたら充電ができないせいで、たくさんダウンロードしていったドラマも4話程度しか見ることができなかった。もっとも空港のかたく冷たいベンチのせいで一睡もできず、飛行機に乗ってから8時間程度は眠っていたし、絵を描いたりもしていたので、実際は映画を観る時間はあまりなかったが。(久しぶりに空港で夜を明かしたこともあり、フランスでの臨界状態での夜がフラッシュバックし、境界と仕切りのことを飛行機の中でも考えていた。長距離移動は考え事が捗るので良い)

2026/6/19
なぜ1日が伸びたのか気になる。
ずっと6/19だ。

自分の気持ちとはいつまで経ってもわからない。目の前のことに対してこだわりがない。今日の食事に、歩いて行く場所に、これがしたい、がある人は羨ましい。人がしたいようにしたら良いと思う。湖沿いを恋人と歩きながら、なぜ私はこんな辺鄙な場所にいて、頭の中で考えている面白いことの1つも言えずに、眠り込みながら考え事をしている方が楽しい。

どうして捨てられたことがないのにずっと捨てられた犬のような気持ちなんだろう。
待ち合わせにはこないだろう、私を待ち侘びている人などいないだろうというアイディアが頭にこびりついて離れない。

湖はどうやって自分が自分だと思うのか。
どこからどこまでが湖だと思うのか。空から見たときにこれは私だと湖はわかるだろうか。私の水はどこからやってきて、なぜこのように底は濁って、水の淵は欠けた石で埋められて、水際の葦たちは何を考えているのか湖はわかるのだろうか。パイクが底を泳ぐ、彼らの目は曇っているから見えない方が都合がいい。

魚にとって水は、人にとって空気のようなもので、あると気がつかないくらい、透明なものなのだろうか。水のように満たされたものの中で生きていたら、肌を触れる水と「私」はどこまでが私になるのかな。それとも水は読むもので、水の中では大小の風に乗るしかないのだろうか。家はどうするのだろう。体を使うなら足を踏み出して土を蹴るしかない私たちは空気と関係が希薄だね。じゃあ、鳥にとって魚にとっての水と空気は同じかな。

縦横の風に陸(おか)探す蝶ひらひら 振り追う手も川撫でる尾ひれ

短歌5日目難しい。
日本語が崩壊してきた。考えがまとまらない。

 

2026/6/20

認知をなぞれば増える分岐つぶさに広げどんな人間であろうか

2026/6/21

憂さごとに カモメばかりみる 二人羽織 さちあれや聞かば ねぇさちあれや

2026/6/22/

水際に伸びるコーナーが街まで 息切れ旗めく背中眩しい

2026/6/24
圧倒的に構造の違う人間と二人きりでいると、自分が世界に存在しているのかどうかさえわからなくなって、世界すら存在していないかのような感覚になる。確かに世界は存在していて、全く違う人間たちがこの世界で確かに生活していて生きているということ自体が、本当のことかさえもわからなくなって、真っ暗な部屋で一人きりでゲームをしているような孤独に襲われる。そうなってしまうと、色がわからなくなって、息が吸えなくなり、喉が締め付けられて、食べ物が喉に詰まって吐きそうになる。人は人のままで、伸び伸びと生きて欲しく、それを脅かすものが自分であってはいけない。そうやって人が人の認知の中で伸び伸びと過ごす間に、私は私の世界が削られ、何が正しく、何を面白いと思い、何に美しいと言えば良いのか、ますますわからなくなっていく。相手が悪いわけではない。私は私らしくいることを私が放棄することが問題だ。

恋人と過ごす時間、息苦しい日が続いて何が問題なのかを思い返そうとこの日記を読み返していたら、初めから恋人は変わっていなくて、私の在り方が変わっただけだった。彼は初めから彼の言語で話し、私は彼の言語に甘んじて彼の言語に便乗し、彼の言語を吸収しようと選択し、その結果私たちは一緒にいる。彼の言語は究極に直線的で、問題提起があり結論があり、それを証明する式で構成され、「好き」「嫌い」を自分の基準にとって正しい判断を常に下す。自分のスタンスは相手がどうであってもブレることがない。合理的で感情的な星で生まれたのが恋人。それができるようになったら私の脳みその問題を克服できるかと思った。それが彼を魅力的に見せていたが、私の「自由で取り止めのないささやかな気づき」を一つ一つ手にとって愛でることが楽しいおしゃべりは、彼の直線的なコミュニケーションにおいて、フラストレーションになることが見えてくると、世の中に存在しているフラストレーションに対して敏感な私の感受性が負荷を感じるようになり、結果としてギスギスした関係を加速させる。

私は、邦ロックが嫌い。テレビアニメが嫌い。砂糖が嫌い。悪口を言う人が嫌い。体たらくが嫌い。価値観が狭い人が嫌い。自分が正しいと思っている人が嫌い。歪な存在が表情に出てしまっている人が嫌い。黙っていたらいいと思っている人が嫌い。恥をかかない人が嫌い。自分のことを高く見積もっている人が嫌い。人の顔色を窺う人が嫌い。自分の意見がない人が嫌い。世界の面白さに気がつけない人が嫌い。色もかたちも面白みのない建物が嫌い。生産効率重視で作られデザイン性をコストカットされた愛のないプロダクトも、実のつまっていない作品も嫌い。海辺のカフェのカウンターが安っぽい木材とペンキで塗られていたら唾を吐きかけたくなるし、夕日が対岸の工場群にあたり美しい海が見える夕暮れ時に、室内のライトをビカビカにつけたまま営業していたらその配慮のなさに不機嫌が顔に出てしまう。メニューにダサいフォントが使われていたら吐き気がしそうだし、街の美容室や古物商のプレゼンテーションに
訳のわからないフリルやビロードが使われていたら我慢ができないし、ビビッドピンクやドラゴンフルーツの紫は世界で一番品のない色だと思うし、それにエメラルドグリーンを合わせられたら、それを作り出した人間を引っ張り出して首根っこを掴み、一日中色彩の本に向き合わせてこの色はなんだ、この色はどんな色だ、と色の特訓をさせて世界の色彩の美しさを「理解(わから)」せたいと思ってしまう。

そんな風に嫌いなことがいっぱいある。嫌いなこと、したくないことがいっぱいあるのに、私は人といる時、その「好き」「嫌い」がなくなって、全てがモヤに包まれてしまう。どちらでもいい。してもしなくてもいい。好きにしたらいいと思う。私は空気になって、皆が気持ちの良いことをしたらいいと思う。幸せなことが一番だし。どうせ世の中はダサいもので溢れているし、ダサいものが一つ二つ増えようが、変わらないと思ってしまう。私は私でやるわ、よそでね、と思って曖昧にする。それが自分の問題だと思う。「よそ」なんてところは存在していない。この世界でどれだけ自分の正しさを押し付けることができるか、というだけなきがする。尊敬している上司や、尊敬しているディレクターを見ているとそう思う。恋人もそう。自分の正しさを諦めず、世の中を自分の正しさで満たしたいと思い、その方法を探ることをやめない。だから恋人は、メッシの美しさを讃え、ロナウドの醜悪さに罵詈雑言を浴びせかける。それが正しいか、正しくないか、ではない。そして判断しない私の姿を見て、恋人は「諦めて高慢でいる」と思っている。

そんな風に嫌いなこと、したくないこと、がいっぱいあるが、「したくない」自分の気持ちを信じない自分も同時に好きでいる。コンフォートゾーンから出て、自分の知らない未知の面白さを知る理解可能性への扉が、合わない他人と、その人の熱中していることに耳を傾ける行為でいる。メッシの美しさやロナウドの醜さが、彼がそう思うポイントは理解できて何を美しいといい何を醜いというのかわかっても、それの同調しようと思わないし、依然どうでも良いことだが、彼は信じられない速さで試合の状況を理解し同時に言語化し、それに一喜一憂し、彼らの欠点を述べることができる。それをすごい能力だと思う。私はサッカーを見ていてもボールを目で追いかけ、ゴールが入ったか入らなかったかで、かろうじて面白いか面白くないか、という判断をするしかないというのに。彼がサッカーについてゲームを見ながら話してくれている間、私は彼の話を理解するために全てのメモリを注ぎ込んでそれを理解しようとする。理解するためにはエネルギーが必要だから、どこかしらでコストをカットする必要がある。そのために私のボディランゲージは削られる。表情がなくなり、体は硬直し、こうしているとき、私は他者からみて、世界に興味がない人間の態度をしている。しかし私の脳みそは全て彼とサッカーに預けられ、全身全霊で彼と彼の好きなものを理解しようと試みて、そして理解する。サッカーの面白さを、メッシの美しさを、ロナウドの醜さを、ウズベキスタンのチームの脆弱さを、ポルトガルのチームの戦略の精巧さを、サッカーを取り巻く全ての世界の複雑さと経済規模の大きさと、熱狂、とは何か、ということを、90分の試合の中で理解する。そういうとき、ありがとう、と思う。私をここに連れて行ってくれてありがとう。知らないことを教えてくれてありがとう。そう伝えているとき私の表情は強張り、体は硬直し、他人から見て世界かに興味がなく、面白さを理解していない人間の態度をしている。あぁ、あなたに伝われば良いのにこの気持ちが。

そしてその膨大な情報量を言葉にすることができないわたしは、態度で表す必要があり、それは彼の好きなアニメにも興味を持ってみようとする態度で、それをサッカーと同じようにその面白さについていかなければ嘘になる気がして、暴れる牛の手綱にしがみついてそれを理解しようとする。その間も私の表情は凍りつき、体は無表情で、全てのメモリとリソースをそこに注ぎ込んでいるというのに、彼は私が彼の世界に興味がないという絶望感や、彼が存在を脅かされる不安に飲み込まれている。あなたに対して、私があなたが思っているよりも、全力であることを、
彼はそのことを知らない。

2026/6/25
うたた寝をしながら、宮廷のピアニストのことを考える。大きなクリスタルのボタニカルハウスで、お嬢様と左大臣婦人がセラミックの端の薄いティーカップを傾けて色とりどりのクッキーアソートを指でつまんで召し上がる。宮廷ピアニストは彼らが優雅な午後のティータイムを終えるまでワルツやソナタを弾き続けなければいけない。うんざりしている。午後の柔らかな光が注ぐ宮廷の植物園で、ピアニストはうんざりとしている。単調で消費され尽くした曲を弾くことに飽き飽きして、宮廷ではない荒涼とした草原や崖淵や洞窟の中でただ心ゆくままにピアノを弾きたいと願っている。

2026/6/26 
一絵へ

あなたに会いたくて、あなたと話したくて仕方がありません。悲しい時、一番に話を聞いてほしいのは一絵です。昔から、そうだったな。恋人と別れそうなとき、パニックで息ができない時、いつも一番最初に電話しなきゃと思うのはあなたです。昨日も本当は話したかったけど、あなたはきっと出ないだろうと思ったからかけませんでした。あなたと話すことができない理由を、多分今ならわかる気がします。

年末に付き合った人とは別れました。ついさっき。彼に会いにフィンランドに行って1週間過ごして、あまりにも合わないから辛くて、本当はこのあとヘルシンキで1週間一緒にいるつもりだったけど、ヘルシンキには一人で行くことにしました。

私は自分のことを素敵だと思うし、最高な女の子だと思うけど、完璧ではないことも知っている。だから、その完璧ではない部分が、相手にとって完璧であってほしい場所だと、悲しい。のびのびとして訳のわからないことをケラケラという愉快な私は豊かな泉みたいに誰にでもお裾分けできるくらい溢れ出ているのに、その水は相手が嫌いな水なのでは、私も彼も辛い。だから、お互いのことが好きだけど、合わないから、一緒にいない方がいいね、と話しあって別れた。

「抽象的なことを話して他人に伝わると思うのが傲慢だ」「俺と話したいなら俺にわかる言葉にまとめてから話せ」と言われ、これなら伝わるかこれなら伝わるかと話すが、その度に「努力が足りない、伝えることを諦めている」と言われては、今まで話していた自分の言語までもが崩壊して、私の世界を形作っていたものが解体してしまう。そうやって1週間誰もいない言葉のない宇宙に放りだされて、息をするのを忘れて泣きながら過ごしていた。抜け殻になった私の体は全身擦り傷の上に塩を塗られ、何千本もの針で体中を刺されているように節々が痛み、空気が触れるたびに心臓が傷んだ。体がずっとバラバラになってしまいそうだった。

白夜の光がブラインドから差し込むリビングで、仕事の前にベッドでくつろぐ彼の腕を握り、お家に帰りたいの、と震えながらいう。「おうちに帰りたいの」体中が痛いの。「俺といるのが嫌?」「あなたといることを頑張りすぎて、疲れてしまったから今は一緒にいるのが辛い。」「それで俺にどうしてほしいわけ?」「今日家を出て一人でヘルシンキに行く。だから電車を取るのを手伝ってほしい。」「わかった。」

 

私は自分のことを素敵だと思うし、最高な女の子だと思うけど、完璧ではないことも知っている。だから、その完璧ではない部分が、相手にとって完璧であってほしい場所だと、悲しい。のびのびとして訳のわからないことをケラケラという愉快な私は豊かな泉みたいに誰にでもお裾分けできるくらい溢れ出ているのに、その水は相手が嫌いな水なのでは、私も彼も辛い。だから、お互いのことが好きだけど、合わないから、一緒にいない方がいいね、と話しあって別れた。

 

人が私のことを好きだと信じたことが一度もないから、彼が私と別れて泣いたのを見てびっくりした。

「本当に好きだったよ、幸せな時間をくれてありがとう」と言われて私の拙さにやはり悔しくて涙がでる。もし私がお姉さんだったら、お姉さんだったら、あなたと一緒にいることができたのに。(できたかもしれないし、できなかったかもしれない)彼が泣きながら「酷いこといっぱい言ってごめん、楽しませてあげられなくて本当にごめん」というから、好きになってくれたこと、あなたがずっと努力してくれたことのおかげであなたを好きでいた時間を無駄だったとは思わない。と伝える。「私たちは頑張ったと思わない?」彼が肩を震わせて私の襟を濡らしながら頷く。私たちは頑張った。彼が私のために努力してくれていたことも、ずっと考え続けてくれたことも知っているし、私は私が頑張ったことを知っている。自分がなくなるくらい彼と一緒にいることを努力しようとした。

 

彼にはたくさんのことを学んだ。

「楽しい」は「その時間を楽しいと感じていること」
「楽しくない」は「それをしてる時間が1番楽しい、じゃないこと」
「やりたくない」は「やりたいじゃなかったらやりたくないこと」
「考える」は「一つの物事を想定できうる限りの可能性を考えること」
「"考え"ないで話す」は「感情に任せてその場あたりで誤魔化そうとすること」
「嘘」は「矛盾して辻褄が合わなかったら嘘」
「信じられる」は「一貫性があって、明日も明後日も同じ判断をするだろうという安心」
「愛」は「好きになった人の気持ちを"考え"て努力すること」

これ、知ってた?私は
「全部が全部楽しくなくても楽しめる瞬間がある」なら「楽しい」
「どう頑張っても面白くならないこと」が「楽しくない」
「他人の快適を奪うことになっても受け入れたくない」が「やりたくない」
「置き換えたり連想したり周辺のことまで考える」が「考える」
「形のないものをどんな言葉なら表せるかを探しながら話すこと」が「考えて話す」
「相手を傷つけることがなく、喜ばせるため」なら「嘘じゃない」
「明日、明後日違う考え方をしていてもあなたとの未来を愛する」が「信じる」
「自分の認知と相手の認知をすり合わせてお互いが傷つかないように努力して一緒にいる」が「愛」
だと思ってたんだよ。

一緒に買ったぬいぐるみや、キーホルダーを見ると一緒に過ごした時間を思い出す。そのどれもちゃんと好きで、幸せで、あなたのことを考えていた。だからやはり涙が出る。

私が彼のことを好きだったは「本当」で、合わないから辛いことも「本当」
好きという気持ちがあっても一緒にいることはできないことを知る。

2026/6/27
ヘルシンキのいろいろな芝生で、恋人といるための別の方法があったのかを何度も考える。
私がもう少し優しく、恋人のあり方を取り沙汰しないで、ニコニコと見ていられるくらい大人だったら?
艶やかに微笑んで、砂場で遊ぶ子供やスーパーで駄々をこねる子供のように、恋人が恋人らしく過ごすのを愛おしく見ることができたら?私にコンプレックスがなく、ありのままであなたと過ごし、私は私の快適を守り、あなたの快適の侵入に対して「戦おう」としなければ一緒にいることができた?そしてやはりいつも同じ結論になる。あまりにも形の違う人間だから、お互いがお互いの形に馴染むまで時間と体力がかかり、その道のりが遠いこと。

頑張らなくてもできることと、頑張ってもできないこと/できるけど疲れること/誰に言われなくてもやりたいことと、どうしてもやりたくないこと/があった時に、お互いがいるために、どうしてもやりたくないこと、とできるけど疲れること、ばかりだと一緒にいると辛い。構造が違うというのは、この領域の多さ少なさだと思う。

人間と人間が一緒にいることは、認知の宗教戦争だと思う。私にとって私の認知が成立していて、あなたにとってもあなたの認知が成立しているなら、それは何が正しい・間違っている、ではなく何を信じるか・信じないかという宗教の問題である。文化も価値観も教育レベルも違う他人と他人が一緒にいる時、認識や文化の違いで摩擦が起きる。二人の関係性において、どれだけ自分の認知という領土を開け渡さずにいられるか、という既得権益の維持の問題、或いは愛する人間と時間を過ごすためにどれだけ譲歩できるか、という境界線の問題である。それを解決するためには、話し合いをするか、戦争をするという方法がある。お互いが柔軟で欲がなく物腰が柔らかであれば話し合いは成立するが、そうでない場合は話し合いというフォーマットをとっていたとしてもそれは戦争になる。戦争とは戦略があり戦法があり、強い・弱いがある。フィールドや戦略を間違えば領地を根こそぎ奪われ、存在の危機が起こる。私は戦争が不得意な上にフィールドを間違い、そして彼に悪気がなかったことや傷つける意図がなかった事実とは裏腹に、結果として根こそぎ奪われてしまった。だから、土地を、思想を、言葉を奪われ、アイデンティティの喪失に苦しむことになった。ジブラルタやユダヤ人やパレスチナの人々の痛みや苦しみときっと似ている。

そして私の間違えは、
・意図的に自分を大きく見せたこと
・醜く不完全な自分を隠していたこと
・論理や効率というフィールドに力を持たせすぎたこと
だと結論づけている。

友人と電話をしながら、友人から「あなたには論理的思考も論理的な話術も必要ない。」と諭される。「ちさちゃんがちさちゃんのままで突き抜けることが、同じフィールドで戦わない、ということだよ」と言われ、自分もそう思うから、安心する。友人はいつも宇宙で迷っている私に手を差し伸べて、あなたはここにいていい、と伝えてくれる。友人たちが好きで好きでたまらない。

ひとしきりの考え事を終え、自分は2度と別のものに憧れて別のものになろうとしないこと、少なくとも私が私に対して後ろめたくないように、自分にとっての幸せのために選択をする訓練をしていこう、という決意と共に芝生からおもむろに立ち上がり、夕方のヘルシンキのまちを歩く。散歩という行為に集中する。窓の形を取り沙汰し、植物を面白がり、テラスで団欒を楽しむ人々を愛おしみ、ランダムな人間の行き交う様に微笑む。そうしていると、だんだんと「今」が私の近くにやってくる。そうすると安心して、余計散歩に精が出るのだった。

もう20時をすぎているのに、あたりはまるで明るく、テレビの仕事で来た時も夏のことで、夜まで明るかった日々のことを思い出す。窓の多い建物に夕方の光が反射するのを見て、カウリスマキの夕日だ、と思う。

 

2026/6/28

ハコヤナギ降る街の景、夏の夕 雪みたいね 一面の綿毛

 

2026/6/29

たらればに猫背の背中がみえては

パンがつかえるの むねのいたみ

 

2026/6/30

好きなこと 無駄なことして 笑うこと
試しにバナナ 踏んでみるとか

 

頬かかる陽に振り返る誰(たれ)そ彼
遠ざかるのはトラムの鈴音

2026/7/2
19:30 関空に降ろされ、荷物を受け取り税関を通る頃には金沢へ帰るための電車はもう間に合わず、大阪で一泊することになった。さようならのようなメッセージを恋人(元恋人)と送り合い、友達でいようと言葉を交わしたけれど、友達になることはないのだと思う。彼のような友人は私の周りにはいない。ダイジェストできたと思ってもクネクネと考え続けてしまう。書くべきこともないのに、言語化し続けなければいけないような気がして意味もなくキーボードを打ち続ける。ゴミのような思考を投げ続ける。12時間のフライトで、窓側の席に変更する場合には1マン以上チャージしなければならず、真ん中の席で思うようにも眠れず動けず、そうすると脳みその中枢部、鼻の奥とのどの間の奥が痛みのようなものを訴えていることに気づく。渇望、だと思う。なるほど「渇望」は「退屈」だと気が付く。「退屈」が私を破滅に連れて行こうとする。

「頑張り」たいと思っている。自分は頑張ったことがないと思う。ずっと怠惰に生きてきた。やりたくないことを我慢して千切れそうになりながら何かを乗り越えたり、何かを手に入れたことがない。毎日毎日早起きを頑張ったこともないし、勉強を頑張ったこともないし、自分に栄養を送るために食事をしっかり摂ることに気をつけもしないし、運動を頑張ったこともない。たまに仕事を頑張る時があって、でも継続的なことではない。人々は受験を頑張ったり部活を頑張ったりして、大学で「仕事」ができるようになって、社会人をして「仕事」をしているし、専門を卒業した人たちは何かしらの技術をつけて、何かができるようになっている。私はずっと働いてきているが、できるようになったことがない。何もできるようになっていないし、ずっと何もできない。何かができるようになりたいと思っている。何かができるようになりたい、と思うと今しがみついているところをすっきりやめてゼロから頑張ったらいいんじゃないか、とかそういうことばかり考えて、介護士になろうかとかお金貯めて専門学校にいって技術を学ぼうかとか、やっぱり大学に行こうか、とか考える。そのたびに、仕事を辞めることが頭を掠める。生活のためだけの仕事と割り切るにはメモリを割きすぎるし、メモリを割きすぎる割に学べることが少なく、疲れる割に給料が低いからだ。しかし今の私が9-5時で仕事をして得られる金額では一番高いかもしれない。よくわかんなくなってきた。頑張りたいと思っている。頑張りたいと思っているのに、何をどう頑張ったらいいかわからない。

彼氏を見ていると、「考え事」をしないように見える。私のように上の空になって別のことを考えたりしない。彼氏と森の中を歩きながら、体が足の裏全体になったみたいで、足全体で歩いてるみたい、といったら、普段からそうじゃないの?と言われたし、他のオーガナイズされた人たちを見ていても、歩いている時は歩いているし、生きている時に生きている以外のことを考えてはいないように感じた。朝起きて、準備をしてご飯を食べて洗濯をして、自分の手足がどこにあるのかをわかっているように感じる。大阪で友人の家に泊まって、そうだと思ってから、考え事をするのをやめて、手を揉み・擦りながら、次にすることだけを考えながら家を出たら全てがスムーズだった。昔のことや将来のことを考えようとするたびに手を揉み・擦り、現在に戻ってくる努力をする。次の乗り換えのことだけを考える。

今頑張らなくてはいけないこと
・家に帰ること
・家に帰ったら荷解きをして洗濯をすること
・MVの撮影のために何をとるか、進めるべきことを進めること
・夜ご飯を食べること

月曜日から頑張ること
・仕事を9-5で終わらせること。
・締め切りに合わせること

中長期的に頑張ること
・体力をつけること
・仕事中は仕事を終わらせること
・仕事が終わったら仕事のことは考えないこと
・食事をきちんと摂ること
・水を飲むこと
・英語を伸ばすこと


2026/7/3
できるかどうかわからない。何度そうしようと決めたか覚えていないが、やはり何度もそうしようと決める。できるかとかじゃなくて、頑張らないといけないから、やる。やると決める。
しかし期限がないといけない気がする。目標が必要。

明日からすること
・7:30に起きる。
・水を飲む
・朝ごはんを食べる
・5分走る
・本を読むor新聞スクラップする
・9時に出社する
・水を飲む
・仕事中は仕事のことだけを考える
・5時に帰る
・native canmp始める
・0時に寝る

実現したいこと
・やはり大学に行きたい
・脚本をかく
・映画を撮る



 

 

 

 

 

お前の歪な魂の形が見たい

世の中の全てのことはいかに「気まずさ」を回避するか、ということを中心に動いているとさえ思う。
宝石のついた高価な時計、ツヤツヤピカピカのポルシェ、複雑なステッチやフレア・スリット・丈やテクスチュアがレイヤードされた服、手触りのあるザラザラしたファンシーな風合いの紙、香水、虹色のパイナップルヘアー、いろんな柄の肌を覆うタトゥー、12mmのカラコン、鰹出汁、寿司につける醤油、ありとあらゆる素晴らしい映画、あらゆる音楽・絵画、5感で旅行をするフレンチコース料理、脇下やVIOの脱毛、スキンケア、情報誌、ピラティス、世界一周旅行、日記。
俺らという存在はどこにいても何をしていても、どこまでも気まずい。 私が私という存在にとっての替えの効かなさに比べて、世界にとって私という存在への必然性のなさという非対称性が存在する限り、人は悲しく、その存在の維持にはいずれにおいても「死」が必要なのであれば、やはり私たちは気まずさを抱えて生きるしかないだろう。そしてそれでも生きることを続けるのならば、気まずさを回避するということを避けては通ることができない。そしてできれば、「華麗に、見事に」「気まずさ」を回避したい。

数日風邪をひいて、考え事が捗ったのでまとめてみる。風邪はマジで最高。仕事ができないのだから、仕事を休んでも許されるし、寝込んでいてもいい。私が「仕事ができない」ことに正当性ができる。最高すぎます。一生風邪をひきたい。やっぱ嫌かも。頭も痛いし、体も痛いし、咳は出るし、疲れるし。健康が一番だし。

いつまでも考え事や分析ばかりをしている自分はものづくりに向いていないことについて、頻繁に落ち込む。風邪をひきながらそのことをずっと考え続けていた。そしたらスコセッシの「最も個人的なことが最大のクリエイティブなことだ」みたいな格言の「答え」らしきものがわかった気がする、んご。わかってしまった、しまったました☝️

世の中には気まずいことがいっぱいある。
例えば二足歩行は気まずい。歩いている時に手はどう振ったらいいかわからないし、歩いている時の耳は所在がないし、第一どういう顔をしたらいいかわからない。二足歩行は極めて気まずい。歩いている人たちを見ると、左だけに体重が乗っていたり、骨盤が一番後からついてくるように歩いたり、首だけ前に出ていたり、ひょこひょこ歩いたり、やはり気まずそうだ。そして世の中には気まずくない歩き方、というのが存在する。骨盤を立て、踵を一直線上に押し出すようにして顎を引いて前を見据えて歩く。2本の腕は筋肉を余すことなく、優雅に曲線を描く。モデルウォークのことである。かっこいい。元々二足歩行だが?という顔ができる。
あとは、知り合いのいないパーティーで一人で立っているのは気まずい。腕や足をどう収めていいかわからない。ポケットに手を突っ込む、足を組む、気まずさが回避される。食パンだけを焼かずに食べるのは気まずい。トーストしてバターを塗ったりジャムを塗ったり、卵を焼いたりする。気まずくない。
気まずさ、とは「必然性のなさ」であり、「空虚」や「空白」、そして「暇」のことである。


華麗に見事に気まずさを回避しているもの・人はカッコいい。
ピカソ、松下幸之助、ルネラリック、ダミアンハースト、ジェームズタレル、ロンミュエク、ロイアンダーソン、イブサンローラン、マティス、安藤忠雄、石岡瑛子、無限に出てくるのでこれ以上あげないが、彼らが評価されるのはその気まずさ回避が見事で華麗だからだ。


「華麗ではない・見事ではない気まずさ回避」とは「気まずさとの追いかけっこ」に勝てないことである。
気まずいからレースをつけてみる、なんか気まずいから胡椒をふる、なんか気まずいからここに水色を塗ってみる。しかし前提気まずいので、気まずさを回避しようとすればするほど気まずさを呼んで、回避したはずの気まずさの隣に別の気まずさが現れる。創作することはこの気まずさとの追いかけっこだ。気まずさからうまく逃げ切れることが「センス」でもある。

気まずくないこと、というのは「理由に満たされていること」だ。
その存在が理由に満たされ、その存在には必然性があり、その存在を生み出すために、人が何かを殺し食い、クソをし、毎日ゴミ袋にゴミが満たされていくことの正当性のことである。
大抵の場合は、その気まずさを「コンセプト」や「公共性」で回避している。それは時代性を帯びているか?それは資料的な価値があるか?それは社会的か?大衆が求めているか?それはどんな文脈があるか?その価値は普遍か?それは「批評」に値するか?全ての広告や、不動産、プロダクトはそのようにして作られている。

で、スコセッシの「最も個人的なこと」に対する答えはそれを踏まえた上で、
次にあるんでわないか?とおもった。

「コンセプト」や「公共性」は外側から内側の空白を塗り固めようとする行為である。建築である。工事である。どこまでも巧妙に設計し、設定し、間を埋めていく作業を必要とし、計算を間違えばその穴や、欠落を発見することはいとも簡単である。
しかしその実、自分、という存在は理由に溢れている。0から1000まで小数点0いくつまでも理由に溢れている。
私がこう考える、あなたをこう捉える、私は今日何を食べる、私は何が好き。
全てに理由がある。生まれる前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の....話から私が私である理由がある。私がポストイットに文字を書いて壁に貼るのが好きなのは、曽曽曽曽曽曽曽曽曽曽曽曽曽曽曽祖母さんが、山で育ったがはじめて行った海でクラゲを食べてみたことでコリコリとした歯応えの感覚が好きだったから、海辺に住みつき配偶者を見つけたが、海の近くは山と同じように自然の厳しさがあり、子供は12人生まれたが6人は海にまつわる死でなくし、3人は山のコミュニティーの厳格な掟に背いた罪で百姓をして生きていかなくてはいけなくて、そのうちの末っ子にあたる「とよ」は、海への恐ろしさをどこか物語のように思っていて、夜に母と手を繋いで家に帰る時には「海」が足元から忍び寄ってくるような、そんな恐ろしさを抱えて育ち、大人になって隣の家の勘兵衛に嫁いだ。勘兵衛とは家が隣だから馴染みがあり、「とよ」は「勘兵衛」の眉毛と、「海」にももしかしたら負けないかもしれない、という予感を好ましいと思っていて、あとは好ましいか好ましくないか、という考えにも及ばない。「そういうもの」だったから、という理由だけであり、その二人から「いよ」「たま」「にし」「与太郎」が生まれ、、そしてそういう連鎖の果てに私はポストイットで壁に文字を貼るのが好きだ。タイムラインを端折ったのは私がそれを「知らない」からであり、文章を書くならその空白を埋めないと気まずいが、書かれていなくても黙っていてもそこに事実が存在している。描かれていなくても、見えなくても、事実として存在している。そういうことが大事だ。

「最も個人的なこと」というのは、こういう夥しく連なる、お前がお前である理由、を煮詰めて煮詰めて凝縮して、それ以上にはならない、それ以外にはならない、お前はお前のようにしか生きられないし、お前はお前のようにしか作ることができない、お前はこのようにしかあることができないように在ることだと思う。私は私のようにしか生きることができない、これはこのようにしか描くことができない。不可逆に生きていく人間は必然的に時代性を帯び、生きることそのものは政治的であり、社会的だ。「最も個人的なこと」は「最も社会的なこと」であり批評に値する。「最も個人的であること」によって「華麗に」「見事に」「気まずさ」を回避することができる。それはすなわち世界と接続するための方法である。

多分、「創作(クリエイティブ)」とは一人一人の歪な魂の形を愛でることだ。歪な魂の「形」を表すことだ。資産価値や歴史資料的価値だとか、美しいか醜いか、という話ではない。摂取した情報をアレンジして「自分なりに」「カッコよく」生成することでもなく、いつか見た「カッコいいもの」が自分自身であると錯綜して再現することでもなく、こうでありたい自分の姿を装うことでもない。どこまでも歪な姿であることを恥じず、どこまでも自分らしい形を探し当て、のみで削りだす作業だ。トントン、カンカン、である。トントン、カンカン、とは自分をどこまでも裸にすることである。

片方の肩だけ位置の低い立ち方をする人がいる。困った時には自分の顔を両手で揉む人がいる。口を膨らませる人もいる。何にでも醤油をかける人がいる。酢豚という料理の態度が好きな人・嫌いな人がいる。歩いてくる足音だけで誰かわかる。素直でいることが好きな人がいる。隠すことが美しいことだと思う人がいる。本当に誰一人としてみんな歪だ。歪だから気まずい。気まずいから、「気まずく歪な魂の存在」を見て、気まずくなくなりたい。

をれはお前の歪な魂が見たい。

交換日記5:彼女が振り返る頃、そこにもう彼女は存在しないこと

2026/5/11
ゴールデンウィークは寝込んでいた。
別に大したことはない。人と連絡を取れないだけだし、世の中のありとあらゆるものに触れたくないだけだし、物事ひとつひとつが大きなノイズになって布団のテクスチュアでさえ騒がしく感じるだけだし、なるべく部屋を暗くして耳を塞いで2-3日眠り込んだら治る。で、治った。久しぶりに晴れて、眠り込むのに飽きたから起きた。そういうものなのかしら。もしかしたら鬱じゃないかも。ただ怠惰なだけなのかも。恋人にはその間あまり返事を返したりできなかったから申し訳ない。寂しい思いをさせていたらごめんね。寂しくないよって言うけど、カッコつけたいからだと知っている。恋人はお姫様だからお姫様みたいに扱わないと拗ねる。拗ねてるのに優しくしようとしてるから可愛い。私もお姫様だから、人に優しくできないのに優しくされたくて、それで恋人に怒られたりする。上司にも「自分のことばっかり」と言われたから、私って自分のことばっかりなのかな、と考え続けていたら鬱になってた。しょうがないよね、人のこと考えてなかったんだから、落ち込んでアタリメーダのクラッカー。ムカムカした時は自分のことばっかり考えてるからだ、と思うことにした。

4月後半からあまり日記を書いていなかった。エッセイの締切と誕生日が重なったからそれに合わせてずっと文章を書いていた。うんこし続けるとうんこ出なくなるんだな。別のところにうんこしてるからここにうんこしなくて良くなった。でも書いたいないうちにどんどん忘れるから、ここ一ヶ月のことはあまり覚えていない。

なんか、最近知り合った人の2人分のカロリー高い人生の話を聞いて、それで生きるってすげぇな、やっぱり誰一人として変だな、と思ったんだよな。本当にみんな変なのだろうか。自分の周りに変な人が多いのか、それともみんな変だけどあまり他人の数奇な人生について思いを馳せたり聞き出したりしないから変なことに気づかないだけなのかな。でも聞き出しても聞き出しても面白くない人はいる。面白い、面白くないってなんだろーーー。

家に帰ったら親友から誕生日の手紙が来ていて、やはりお手紙って届いたら嬉しいものだなと思ったけど、遅すぎるから腹立たしい気持ちになった。とはいえやはりお手紙は嬉しいから、えへへ、となって許そうかな、と思った。来年も忘れていたら許さないかもしれない。許すかもしれない。許すってなに?許さないってなに?

お手紙のことを考えるたびに、人のことを好きだと辛いことが増えるな、と思う。
好きなの好きなの好きなの、だから嫌いなの。一挙一動が私に影響を与えてくる。
返事が何日帰ってこない、誕生日のお祝いメッセージがこない、とか、とか。他の人だったらそんなこと一切思わないようだ。他人のことはどうでもいい。でもあんたはどうでも良くない。どうでも良くないの、だからむかつきます、と。

2026/5/12
どうやら風邪を引いた。
体が重い。昨日は早く寝た。早く寝たから早く起きた。2時くらいに目が覚めて気まずかった。恋人に送った7通くらいのメッセージへのレスポンスが一つもなく、一言だけ仕事がうまくいったというメッセージが来ていた。起きてもしょうがないのでまた寝た。5時に目が覚めてメッセージをもう一回チェックしたけどそれ以降きていなかった。寂しいの、といえない私は可愛い。大丈夫大丈夫〜という顔をしてしまう。多分言ったほうがいいけどいえない。どうして〜?

2026/5/13
寂しいからと言ってぷんぷんするのは良くない。ぷんぷんすると、みんながぷんぷんする。みんな怒られたくたいものだ。そっけないからと言って、そっけなくしてはいけない。そっけなくされたらみんな悲しいものだ。そっけない、というのは勘違いであることが多い。そっけくしたつもりなんてないよ〜💦でもそっけなかったんだもん、寂しかったんだもん、ぷんぷん、である。ダメである。なので、ぷんぷん、としたときには、ぷんぷん、の方を見てはいけない。自分が一番最初にどう思ったのか、を発見する必要がある。大抵それは「寂しい」「不安」「悲しい」だ。恋人にわかってもらいたい、と思う前に、私が私のことを分からなければいけない。ぷんぷんした私の気持ちは私にしか分からないのだから、それが他人にわからなくても他人は悪くない。「悲しかったの、をまず受け入れて!」とぷんぷんする前に、自分に「寂しかったの、そうなの、寂しかったねヨシヨシ」と抱きしめて上げることが大事かもしれない。と気がついてから、恋人からそっけないメッセージが来ても、素直に「寂しいから抱きしめて」と言えるようになった。偉いから褒めて欲しい。友達に話したら、偉い、と言ってくれた。嬉しい。

2026/5/22
面白いことも面白くないことも平等に忘れていく。さっきまで話していた友達との会話が興味深くて感心しても、それを友達に説明しようとすると話の流れをうまく説明できなくて、愕然とする。
最近は面白いことは2つあった。その時の衝動のまま書き残しておかなければ、と思っていたのだが、日記を書く時間が取れないまま3日くらい経ってしまった。「時間がない」といつも思っている。時間がないということを言い訳にしているのではないかといつも自責の念に駆られていたが、最近は「本当に時間がない」のではないか、という疑念が明らかになりつつある。私の創作が捗らず、何年経っても人生が思うようにいかないのは、実は本当に時間がないからだったのではないか?「時間」のせいである場合、それは構造の問題なので、解決しなければいけない。じきに私は解決をしようと思っている。

見ず知らずの他人と能動的に予期しない出会いをするのが好きだ。休日に「誰かに出会おう」と決めて家を出る。友人との親交を深めるわけでもなく、ただ見ず知らずの人間と出会う瞬間を求めて世間に出没する。カフェや道端や本屋など。それは居酒屋やバーであってはいけない。酒を飲んだ人間たちが出会うのは間抜けだからだ。見ず知らずの他人を純粋な好奇心だけで正体を明らかにする瞬間が好きだ。個包を開ける感覚に似ている。見た目では他人のことを計り知れないから、一枚一枚包装を剥がしていく。この作業は繊細な操作が必要になる、距離感を適度に調節し、境界を溶かしていく工程が必要だ。限られた時間で必要な音をとる必要があるインタビューのように、相手にとって心地の良いリズムを保ち、無駄なくスマートに全てを脱がす。距離感を推し量る確かな感触とそれを相手に悟られてはならないという緊張感がスリルを読び、ついに正体が明らかにされたとき、達成感と、見知らぬ他者というデータに対する知的興奮を覚える。

5/24
同僚に誘われて出張で熊本に訪れた。会社が実装を担当しているデジタルコンテンツのワークスアーカイブのための撮影が名目だった。熊本市内で夜撮影を済ませ、それが終わると馬刺しを食べ、ほろほろと酔いながら同僚たちと
市内を散策する。初夏の夜風が涼しく、金髪のほつれ毛がサラサラと顔の前に揺れる。熊本に訪れるのは2回目だ。前前職のテレビの仕事で、取材で行った。市内を走る路面電車と商店街をみて、以前に一度きたことがあると思い出した。誰に会いに、何を撮りに行ったのか、一つも覚えていないが、確かちょうど熊本地震の頃だった気がする。それか大雨で洪水の日だったかもしれない。何かしらの自然災害のニュースでもちきりだったことだけは覚えている。上司と感じの悪いディレクターと皆で食事を摂った後、悲しい気持ちで人気のなくなった時間に一人で商店街をうろうろとしたのを覚えている。市内を一泊した後、二日酔いのまま軽の4人乗りの車で後ろにぎゅうぎゅうと荷物のように積まれて阿蘇山脈をドライブする。はじめの山道は木々に囲まれたクネクネとした坂を上がったので車酔いで吐きそうになったが、そこを抜けるとなだらかな芝ばかりの生えた山肌がちょうどお盆のように阿蘇を囲んで連なり、幸運にも晴れ渡った空と勢いの良い初夏の緑が広がった景色に目を見開いて、吐き気を遠ざける。カルデラは火山灰で木がはえず、芝生のようにブタクサや稲科の草が地表を覆う。福江島の鬼岳山のことを思い出す。ぽっこりと山が島の端に聳え立ち、山を撫でるように風が吹いていた。その日から心の国に鬼岳山がずっと聳えている。それもテレビの仕事で行った。風力発電の解体の取材だったと思う。魚がうまく、貸切タクシーの料金が7万8万と上がっていくのを見ていた。夜にはカラオケに行って私は歳をとった上司のために赤いスイートピーを歌って、ディレクターは聞いたことのない邦楽を歌っていた。私はほとんどの邦楽は聞いたことがない。ホテルの向かい側には教会があって、夕焼けの赤紫の空に十字架が佇んでいた。だからお祈りをしたのだった。これは私の記憶ではない。私のiphoneのカメラロールとメモ帳の記憶である。
阿蘇山をドライブした後、空港へカメラマンのパートナーを送り届けたあと、カメラマンの地元へ向かう。あまりどこへ向かうのかもわかっていなかったが、目を回しながら車の荷台に詰められて、拉致のように大分の知らない町に連れて行かれる。阿蘇の開けた山道を過ぎると、典型的な山奥の、ダムがあり針葉樹ばかりが生えているようなクネクネとした道が続き、いよいよ私は胃のなかのものを全てゲロゲロと吐きだしてしまった。予測はしていたので、コンビニのレジ袋にゲロベロと吐きだす。朝食べたバナナ、コンビニで買ったフルーツ、カフェで飲んだジンジャーエール、ついさっき食べたバームクウヘンが胃液と混ざり合ってミックスジュースのように出てくる。私はミックスジュースを作ります。前の席で同僚とカメラマンはウエエエエという声を聞いて窓を開けてしばらく黙る。しばらくするとお構いなく話を続けた。紅茶味のバームクウヘンの香料の匂いが袋からした。ローソンで買った。昨日食べた馬刺しが入っていないか探したが、肉は12時間で消化するのだそうだ。ゲロを終えてスッキリとした顔で「馬刺し入ってなかった」と前の二人にいう。昔電車で傘にゲロを吐いていた終電のサラリーマンの話をして、コンビニでゲロを捨てた。さようなら私になるはずだったものたち。さようならグレープフルーツ。さようならバームクウヘン、さようなら、さようなら。

鮎が放流され川釣りが解禁される日を祝って花火大会が行われるらしく、町に着くと、カメラマンは「祭りの匂いを嗅ぎに行こうぜ」と言い、出店の集まる駅前や、繁華街のコンビニなどを車でぐるぐると回った。祭りに対する思い入れの違いにびっくりする。学生の頃は他校の子やクラスの違う子と話たり遭遇する危害が祭りしかなかったから、今でもその頃の同級生などに遭遇するのを楽しみにしているのだという。夏祭りか、と遠い目をしてしまう。花火だからと、カメラマンの兄は友人たちを集めてBBQを催し、あっという間にテントを立てたり炭が焚かれ、子供達が走り回り、BBQが始まる。後から思い返してかくときには「訳もわからず」と形容しているが、実際には私は空気のようにその時間の上に乗っかり、驚きもしなければ不安にもならず、そういうもんか、と思っている。こういう「動じなさ」は小さい頃に身についたと思う。

見ず知らずの他人と予期しない出会いをすることが好きなことと同じくらい、予期しない場所や予期しない状況に巻き込まれるのが好きだ。
自分はインドアで体力がなく、旅行を計画したり、観光地を巡ることにも、友人を誘ってどこかへ出かけるということも得意ではなく、能動的に自分のお金を使ってエリアを出ることを計画する時は、自分の人生に必要不可欠であると判断した時だけである。家出をしたときや、仕事を辞めたときや、ロンドンに行ったこと以外には、基本的には自転車で一人で行ける場所に自分の意思でいくこと以外にはない。理由は明快でお金がかかるし友達がいないし、世界に興味がないからだ。見てみたいものや行ってみたいところや食べてみたいものもないことはないが、それらの体験が人生で一度も訪れることがなくてもどうでもいい。
予期せず巻き込まれることにはモチベーションも要らなければ、正当性やコンセプトを作る必要がなく、金銭的にも体力を削られることがなく、世界の亀裂に遭遇することができる。例えば出張にいくこと、転勤をすること、他人の旅行についていくこと、他人の家に上がること、関係のない家族のバーベキューに混ざること、船に乗ること。予期せず巻き込まれ、出会うはずのなかった人やいくはずのなかった場所を念入りに観察し、聞くはずのなかった他人の話を聞き理解しようとする。そうすると満たされる。好きか嫌いかではない、受け入れて正当性を持たせていく。受動的に世界の亀裂を受け入れ、亀裂と同化し生き延びる。生き延びる瞬間が好きなのかもしれない。

BBQをしながら子供たちと遊ぶ。4歳と8歳の男の子と女の子で、二人とも驚くほど大人びた表情をする。敬語を使う。いきなり遠くを見る。甘えたいという気持ちと、遠慮する気持ちがせめぎ合う。
「お母さんとお父さん、結婚してないからね」
「明日も遊ぼうよ、好きな子とデートなの、可愛くしていくの」
「お姉ちゃんも好きな人いる」
「付き合ってどれくらい?」
「今4ヶ月くらい、ようちゃんは?」
「今1ヶ月くらい」
「ほやほやだね」
集う人々は皆傷ついた顔をしている。誰一人としてそれに気づいていない。家庭は皆壊れ、誰一人として「完璧」な育ち方などしていなくて、それが「普通」で「平凡」で、そして「仕方のない」ことだと思っている。ただ傷ついたことを知らないふりをして、仲間の前では気丈に振る舞い、仲間をよろこばせることを演じる。演じているとも気が付かないまま、皆が「振る舞い」をする。悲しくて仕方がない。大丈夫だよ、と言いたい。大丈夫大丈夫。お母さん、大丈夫。おばあちゃん、大丈夫。お父さん、大丈夫。ようちゃん、みぃちゃん、大丈夫、大丈夫。

子供達をクルクルと回す。高いたかいをする。追いかけっこをする。手を繋いで歩く。芝生で一緒にハグをしながら花火を見る。大丈夫、大丈夫。君たちは大丈夫。

悲しい気持ちでいるならば、良い景色をたくさん見るといい。たいした景色でなくて良い。美しい光を集めると良い。心に町を作っている。美しい光の窓が町に灯る。ぽっこりとした芝生の山が立つ。大きな風の発電機がぐわんぐわんと回る。黄色いライトのミュージックバー、壁が緑の映画館。自分の町を、心の中に作るんだよ。

ねぇ、ようちゃん、みぃちゃん。生きたいか、生きたくないか、それが大事だよ。夢を持つといいよ。生きていける。


交換日記4:彼女が振り返る頃、そこにもう彼女は存在しないこと

2026/04/05
「嘘をついても何の得にもならないのにエンターテイメントのためにしれっと嘘をついたりする癖があるよね」と言われてその通りだったからゲラゲラと笑った。何の得にもならないのに何故かいつも面白おかしく話してしまう癖がある。だから当の本人は「愉快なキャラクター」に閉じ込められて余計に心の奥底を話すことができなくなっていく。それでも私にはバームクーヘンのように「層」があるから、どの「層」でも人と話すことができる。どの「層」も私だと認められるようになった。なので誰と話しても「寂しく」はなくなった。
友人に「あなたはとても面白い。」と言われ、私は私を面白いと思うが、それが他人にとってどう「面白い」と見えているのかわからず、しかしその面白さを人がメンションしてくれることが多いから、自分のことをよくわからないが人は私のことを面白いと思っているらしい、と認知している。その面白さは多分、私の「自由なおしゃべり」に起因していると思っている。

恋人とは、やはり深淵の話はできない。だから、少なくとも恋人はそういう私の「おもしろさ」を理解していないのではないか、と思う。私の好きなところを聞いたら「夢があるところだ」と言っていた。夢がある、ってどういうことだろう。夢がある人なんていっぱいいるのに。「面白いと言われる方が嬉しい」と言ったら、あまりピンと来ていないみたいだった。

私が他人へのネカティブな分析を披露し、それでもその人を尊敬していることや敬愛していることを話したら、恋人は少し困惑した顔をしていた。「今のところネガティブなキャンペーンしかしていないから、あなたがその人を尊敬する理由がわからない」と言われた。まずはじめに、確かに〜。(後から会話を思い返すと私はいつも他人へ公平に情報を与えていない。普通にストーリーテリングが苦手。)私は人のネガティブなところを見つけ出してそれを分析することには長けているが、その人のポジティブな部分については分析せず、その良い部分をある程度「ガバガバ」に愛している気がする。良いところも悪いところも人にはあるから、ネガティブなところを見つけたからと言ってその人のことを嫌いになるわけではない。が、ネガティブキャンペーンはする。私の性格が悪いのかな。私の性格が悪いのかな〜と考えあぐねる。

恋人はとてもまっすぐな人だ。 「役割」を満たしているか、満たしていないか、自分にとって害があるか、ないか、それが「好き」かもしくは「嫌い」か。いさぎが良い。迷いがない。私のようにウジウジしていない。良いところもあるし嫌いなところもあるんだよね、とか言わない。嫌いなところが嫌いなら嫌いだし、好きなところが好きだったら好き。だから、「〇〇は仕事ができないから嫌いだ」とか「〇〇は努力をしないから好きじゃない」とか、そういう明確で迷いのない判断基準を「性格が悪い」のではないか、と思ったこともあるが、性格の良い・悪いも角度の違いだから、性格が悪くないとも言えるし、良いも悪いもない、とも言える。判断基準が社会規範に沿って明確だ、そしてたまに人間らしくダブルスタンダードがあり、彼の尺度において機能しているか、していないか、だけだということだと納得してからは、深淵の話ができるかできないか、人をグラデーションで愛すか愛さないか、という個体差がそこまで気にならなくなった。一時は好きであることに迷いが一瞬生じたが、今はやはり好きだ、と結論づけている。多分その潔さが私に安心感を与えていると思う。

2026/04/07
恋人には話さない話を友人たちと話すことに後ろめたさを感じていた。私がそういう話を異性や同性でも構わずマンツーマンで話すことが、浮気に当たるのではないかという不安をずっと感じていた。なぜならインスタやティックトックの恋愛コンテンツを見ていると、恋人以外と飲みに言ったら恋人が嫌がるから、そういうことをしているのは「気持ちが悪い」というようなことを、男性に諫めているコンテンツなどが溢れており、結構びっくりする。コメント欄でもそういう行動を非難されることを大人数が肯定しており、自分が非難されているのではないかと不安になる。恋人を不安にさせたくはないが、私は多面的な人間で、多層的な人間だから、ひとりの人間がそれを受け止められるという期待はハナからしておらず、だから多数の人間と、多数の話をしたい。ドキュメンタリー映画の話しならAさんに話したいし、美術の素晴らしい映画ならBさんに話したいし、絵画の話しならCさんに話たい。抽象の話しをするならDさんがいいし、美味しいご飯を食べながら社会の話しをしたいならEさんがいい。ニッチなコメディリールならFさんに送るし、という具合に、話題と役割によって話す相手を変えている。どれも楽しいし、どれも大切だ。知識欲への高揚感を毎度感じるが、それは恋愛感情とは違う。(と思っている。というよりもそれを棲み分けるべきだ、と最近思うようになった)
もちろん、その話を恋人が全部できるなら、そんな完璧なことはない、と思うが、そうでなくても良いと思っている。けれど、そう思っている一方、それを担うのは恋人であるべきだ、という社会的な規範(のように思える)が私にその行為をうしろめたく思わせている気がする。

友人とご飯に行く間、ご飯の後、恋人は少し怒っているような、イラついているような様子を見せているきがして、やはり自分はその行動を控えるべきか、控えなくても良いのかを迷ってしまう。事実は、そいういう迷いを私がしていることが、彼を不安にさせているような気もする。それとも、その後ろめたさがあるから、私の認知が歪んで、彼が不安に思っているに違いない、という「勘ぐり」をしている可能性もある。

友人にそのことを話したら「聞いてみるしかないよね」と言われ、それはそうだと思った。
なのでタイミングで聞いてみる。

2026/4/12
「君は自分のことしか考えていない。人の気持ちを考えなさい」と立て続けに違う人から言われた。新しく配属されたチームの新しい上司と、恋人から。人のことを傷つけていないか、不安にさせていないか、嫌な気持ちにさせていないか、いつも考えているが、どうやらそれは人のことを考えるとは根本的に違うようで、「人のことを考える」とはどういうことかを考えてみる必要がありそうだ。

恋人に怒られた。異性の友達と会っていたことを黙っていたから、自分がされたらどう思うかと聞かれ、私なら不安になると言ったら、どうして自分がされて嫌なことを人にするのかと問われた。不安にさせたくなかったのだ、と言ったらかぶりを振って自分がされたら嫌なことを人にもすることが理解できないと言っていた。結局僕のことなんて一つも考えていなくて、自分のことばかり考えているんだ。恋人は多分私よりも「仕事」ができるから、恋人の言うことが正しいかもしれないと思って理解してみようとしてみる。

失望された気がして、愛は恐ろしくて、彼のことを考える間、涙が止まらなくなった。愛は恐ろしい。泣きながら眠り、よく寝たら元気になった。休息や睡眠が足りないと不安になる。今の心の平穏は私の内面から湧き上がるものではなく、生活の習慣や金銭など外的な要因で成り立っているのだと知る。貧しくなったとき、戦争になった時、愉快な人で二人とも居続けられるのだろうか。

2026/04/20
代休をもらい4連休を取った。毎日13時まで寝て、ブルーベリーとバナナとヨーグルト、たっぷりのサラダ、玄米、タンパク質などを取っている。カフェに行って原稿を書く。恋人や友達と電話をする。本を読む、映画をみる。豊かだ、と思う。







 

交換日記3:彼女が振り返る頃、そこにもう彼女は存在しないこと

2026/3/1

面白くない日記を付け始めてから気がついたら3月が始まっていた。日記をつけていても時間が過ぎるのは早い。毎年毎年そう言っている気がするけれど、毎年毎年早くなっていく気がする。恋人とは変わらず仲がいい。変わらずというよりも、日に日に好きになっていく。この間は15時間電話をした。夜眠る前から次の日起きて家を出る前まで電話を繋ぎ続けて、その間に喧嘩をしたりエロいことを話したり、寂しいと泣いたり、どうでもいい話をしたりした。恋人は私と毎日電話できるの嬉しいと言っていた。好きなのが伝わってくるかららしい。確かに。私も毎日電話するなんて思ってもいなかった。親友たち以外との長電話は気が狂うし、今まで恋人との電話も数日に一度が限度だったから、びっくりしている。何も話すことはないけど毎日電話したい。恋人アディクト。世の中の人ってこんなふうに人を好きで付き合っていたんだ、と思ったら、なんだか悔しい気持ちになる。

 

金沢に来てからもうすぐ一年が経つ。「暮らし」をすると決めたから、この街には愛着のある場所や人ばかりになった。ぶち上がるパーティーはないけど、街にいられる時間は夜だけではなくなったから楽しい物事が増えた。いく場所も少なく限られているから気に入った場所があれば何度も足を運ぶし、そのおかげでどのお店に行っても続きの話ができるようになった。「暮らし」は「連続性」を持っているのだと気がついた。連続性のある場所で私は行儀良く過ごし、居心地がよく、のびのびと暮らしている。連続性があるから転勤の決まった友人との別れには涙が出る。遠くに行くからと言って会えないわけではないのに、離れるということが悲しく、同時に今までの自分の感情の淡白さにびっくりした。ロンドンや金沢にいくときに、私が東京を離れることを悲しく思ってた人がいたなら、私は悲しい思いをさせたかもしれないと少し後ろめたく思った

 

恋人の話は全部メモをとっている。上司の名前とか、友達の名前とか、両親のこととか、同僚のこととか、彼らはどこで出会ったとか、どんな思い出があるとか。好きな食べ物とか、嫌いな食べ物とか、最近買ったものとか、恋人のことをいっぱい知りたい。

友達に恋人の話をしたら、普通になったね、と言われた。普通に恋をして、普通に悩み、普通に嬉しいことは嬉しいという。普通に嫌なことは嫌という。普通に悲しい時は悲しいという。普通に好きだから好きという。普通に〇〇、普通に××。そう、本当に普通になった。だから普通にお嫁さんになって、普通にママになって、それでいいかもと思うようになった。クソつまらないことを日記に書き綴っている自分のことも好きだ。クソつまらないことがかけがえがないと思っている自分のクソつまらない思考も好きだ。世の中はつまらなくていい。つまらないままでい続けてほしい。

 

23:00 メルティングポット。仕事をしなければならないのでパソコンを持ってきたが、作業はできず、伊藤亜紗さんの「手の倫理」を読んでいる。平岡さんがノートでこの本を紹介していた。最近平岡さんの紹介しているものから世界を知ることが多い。暗殺の森も平岡さんが紹介していたからみた。私が深淵の話をしていた時平岡さんはリアクションをしていたから平岡さんは深淵を見たことがあるんだと思う。平岡さんなら見ていてもおかしくないと思う。平岡さんとは一度も会ったことがないが、存在を知っている。連続性ってすごい。平岡さんのことを6年くらい目撃し続けているから、会ったことがなくてもその蠢く存在の様をなんとなく知ることができる。きっと私もそのように人に目撃されている。私の場合はもっと、演出されているが。

 

非常に興味深い内容なので記述する。平岡さんほど上手にまとめることはできないし、まとめられないことで自分を責めたくはないから、メモ程度に残しておく。
「手の倫理」では触れることを改めて見つめ直し、そこからどう関わりをしていくことができるかということを再考している。手で触れることでその触れた存在を自分の内部に取り込むことだ、という。視覚や聴覚には「距離」があり、観測するものから出ることができないが、触覚は触れることで触れられ、「わかる」ためには闇雲に触るのではいけない。触れ方で存在に触ることで手に変えるテクスチュアが変わるからだ。毛皮を逆に撫でれば指に刺さる。繊維に沿って撫でることで滑らかで皮膚を優しく触れ、その毛が柔らかで暖かいことがわかる。その存在の無限性をさまざまな触り方で知っていくことができる。その絶えず動いて止まない流れを自分の内部で感じることが触ること。

恋人にこの話をしたらよく伝わらなかったので、後でちゃんと文章で残しておこうと思う。しかし眠いので続きは今度かく。

 

2026/3/2

恋人に電話越しに見守られて眠る時間が好きだ。私が眠りの狭間にいるとき、恋人はそっと静かに見守っている。私が眠るまでそばにいてくれている。実際はそんなにロマンチックなものではなくて、恋人は私の顔を横目にリールを見てゲラゲラ笑ったり、ゲームをして対戦相手に悪態をついたり、仕事のメールをブツクサと言いながら返したりしている。でも話をしてもいないのに電話を繋げていることは好きではなかったらできないことだから、私は心地が良くてよく眠ることができる。

2026/3/6
最近昔の人たちからよくメッセージがくる。名前も存在も記憶から消えていた人や、ずっと気に掛かってよく思い出すことがあった人も、さまざまだが、数年ぶりになぜかフォローがきて、メッセージが来る。
よく泣いていた、と言われる。記憶にない。吹いたらどこかに飛んでいきそうだったから、生きていてよかったと言われた。私が遠くにいたから自分が小さく見えて、辛かった、ともよく言われる。あまり理解ができない。あの頃の私は今よりもまして醜く、小さく、卑屈で、誰とも仲良くなることができず、常に傷つけられることを恐れていて、怯えていたし、賢くもなく、欠けたところばかりで、常識がなく、そして疲弊していた。だから、ゴキブリのようだったし、無愛想で、人に劣等感を与えるようなところは何もなかったはずだから、今も何かを間違えてはいないか不安になる。


2026/3/7
「思い出」はいつも過ぎた頃にしか現れず、「その時」には確かに私は今この時感じているように克明に見えて感じていたはずなのに、振り返る頃には朧げな霞のような情景だったようにその時の感情や情景が書き換えられていて、それは不思議なことだと思った。ロンドンに行く前にとても仲が良かった親友と、2年ぶりに再開した。兄弟たちと3人で公園通りの地下にある中華料理屋で麻婆豆腐を食べ終えた頃、意外と撮影が早く終わったという親友と宮益坂の交差点で落ち合う。同じことを考えているようでやはり別の人間だから、待ち合わせはゆるい感じだとなかなか落ち合えなかったり、ミスコミュニケーションが生まれたりし、それもそれで面白いから笑いが生まれる。銀座線の改札側にいるその姿を認め、大きく手を振った。宮益の上のカフェで話そうという話になり、お互いのお気に入りのカフェを誇示し合うことでセンスの良さを戦わせるバトルを繰り広げる。「カフェバトルだね」という。結局1軒目は私のおすすめのコーヒー屋さんへ、2軒目には親友のおすすめのカフェへ行くことになった。親友とはケンカのようなことをして、1年ほど連絡を取っていなかったのだが、金沢に行ってからの1年は、再び連絡を取り合うようになった。去年はとても頻繁に長い時間電話していたし、日々のアップデートを共有しあっていたから、そこまで唐突な再開ではなかったはずだが、やはり物理的に存在していることの大きさには困惑して、しばらくはお互いの顔をまじまじと見て、目の前のその様を今までの会話と紐づけるための時間を確保するので精一杯になっていた。親友と過ごした日々は宝物のようで、その時間は昨日と今日くらいの連続性を持った物事のままとして思えていたが、目の前でまた「存在すること」になったことで、その日々が一度思い出の箱に入れられた感覚というか、それらが過ぎ去った日々の話だったのだと嫌でも自分の中で確かなことになって、その目撃していなかった日々の積み重ねの夥しさに眩暈がしそうになった。話す親友の姿を見て涙が止まらず、後半はずっと泣いていた。なぜ涙が出るのかわからない。最近はよく涙が出る。人と物事の象(かたち)を目つめる会話をできた時には涙が出るし、会社の同僚とゲラゲラと笑いながらラーメンを食べている時にも涙が出るし、上司が前に進んでいる姿を目撃して涙が出る。ディズニーのパレードを見ているようで、陳腐に言ってしまうと「人生の美しさ」みたいなものに涙が出るのだと思う。あの日々が霞の中にあることが悔しく、目の前で話す親友の所作を一つ一つ忘れないように、と目をこらしながら話をした。忘れないうちに文章で残しておきたいから、仕事を放ってこの日記を書いている。

人の顔は生活や日々の積み重ねだから、その小さな積み重ねが顔の様子を変えていて、親友は以前よりも「良い顔」をしていた。国外のプロジェクトも増えたようで、金額も規模も仕掛けも大きくなり、出会った頃から尊敬していたけれど、その人生の進み具合の速さに驚きを隠せなかった。前に進み続けた人の進んだ姿を見てそれを羨ましく思うなんて野暮だと思うが、この先どんどん遠くまでいって、「すごいね」と「こちら側」からいうようになる未来を想像したら恐ろしく、後ろめたい気持ちになった。親友たちに会うと、いつも自分は全然進んでいないようなきがする。普通になっていくことや、目的や夢を失っていくことが空恐ろしく、そんなことを言ったら、「仕事を辞めた方がいいとか続けた方がいいとか、そういうことを言うつもりはない。楽になりたい気持ちが昔のことを忘れさせようとするらしい。楽になりたいし、納得させる理由を探し始めるみたいだ。昔同じように夢の話をしていたのに、諦めた
昔の友人たちに会って、話しがちがう、と思ったんだよ。それが少し悔しかった。俺は結構頑張ったから。」と静かに言う。克明すぎないくらいの輪郭で相手を見ることができる店内の照明で、映画のシーンみたいで、それを無意識に視界でフレームを切りながら、やはり涙が止まらず、そんな私のことを見ながら「君は面白い。君は結婚しても子供を産んでも面白い。簡単に面白くなくなれると思うなよ」と冗談めかしく言われ、私のことを面白いと言い続けてくれるこのおかしな人のおかげで、やはり欲深くい続けて、必ず同じ景色を見たいと思う。

2026/3/8
終わっていないこと、は私をそこに執着させるから一度私と切り離す必要がある。清算されていない物事や関係性は、納品されないプロジェクトみたいで、永遠にそのプロジェクトを抱えることになる。進行中のプロジェクトがロングリストになると、考え続けることが多くなるからそれは負債のように感じる。ロングプロジェクトはあまり得意ではないから、私の場合は、終わっていないのであれば一度終わらせる必要があり、だから25を過ぎてからはタスクに完了マークをつけることを始めた。10年分の有象無象の散らかしたプロジェクトの整理をし、そのようにして健康になろうと試みている。

別の親友を、「友達」ではないことにした。「親友」のファイルに入れて「気にする」の棚に入れていたところから、ラベルを変えて棚を変えた。何があったからとかではない。お互いにとって傷つけあった積み重ねは取り返しがつなくて、愛おしい気持ちよりも億劫で腹立たしい気持ちが大きく、期待している分思い続けるということが気の重い存在でお互いがあったように思う。だからラベルを変えた。腹を立てていたことがきっかけだったことは事実だが、コップの水が溢れたような感覚に近い。ずっと辛かったから、もうそれを苦々しく思わなくていいことに気が軽くなり、それでも親友をなくしたことには変わらず、悲しいことは悲しかったから涙が出た。自宅のソファで寝転がりながら親友が震災について語るドキュメンタリーを見て、彼女が彼女の母や父にとてもよく似ていることや、小さい体と心で寂しさと戦ったことや、恐怖を経験したこと、その女の子が東京に出てきて人生を捻じ曲げて自分の足で立って頑張って生きてきたことが愛おしく、やはり私は彼女と出会うことができてよかったと思った。だから、変わらず大事に思っている。変わらず愛している。変わらず活躍を見ていたい。けれど「友達」ではない。だからもう会わない。応援している、見守っている。祈っている。また出会えるかもしれない、もう会うことはないかもしれない。

2026/3/14
平岡さんとご飯を食べに行った。平岡さんは白のルーズなボトムスに、黒のレザージャケットをきて、中にネイビーのチェックシャツ、その下にボーダーのピッタリとしたシャツをきていた。
ミルクティー色の靴下と、鳶色のマーチンを履いていて、私は靴も靴下も選ぶのがめんどくさいからという理由で黒しか持っていないから、おしゃれな人だなと思う。平岡さんのおすすめで、渋谷の道玄坂上の百軒通りを上ったところにあるカジュアルなイタリアンにいく。若い男性の定員ばかりで、飲食店のスタートアップらしさがあるなと店内を見渡して思った。平岡さんはお酒があまり強くないからワインは飲めないらしく、山椒の和クラフトビールを頼むと言って、私も同じものを頼む。平岡さんは今まであまりあったことのないタイプの女性で、話している時の違和感が少ない。友人たちと話す時に感じるコミュニケーションのラグや、伝わらなさみたいなものによって感じるストレスが限りなく少ない。平岡さんのことは友人からたまに話を聞いたり、彼女の文章を読んだりして、時間軸の中に点を打つような間隔で存在を認知してきたが、改めて本人の口から、18からのディテールが保管されることによって、自分と自分の周りの人を含む同じ時間軸の中に、もう一本別の時間軸が新しく生成され補完されていくような感覚があり、それがとても面白かった。


2026/3/15
小さな挙動も見逃すまいと人の仕草を端から端まで見つめるとき、それは恋にも似ている気がする。眼差しの小さな動き、指先の震え、声の細やかなニュアンスの変化、人と話す時それらを全部見逃してはたまるかという志でいる。だからその些細なアウトプットの今までの膨大な積み重ねが気になる。なぜ彼女・彼らはそのようなリズムを手に入れたのか、なぜそのような笑みを讃えるようになったのか、なぜそのような話かたをするようになったのか気になる。境界がひかれ、共感性の低い人たちはあまり人の目を見ない。人の方を見ない。言葉と言葉の音だけを聞いている。だから彼らは私がどんな顔をしてどんな目で彼らを見ているか知らない。それがたまに寂しい気持ちになる。この人は私に触れるつもりはないのだ、私の人生のたったこの顔を合わせている瞬間でさえ、「私たち」の物語を引き受けるつもりはないのだ、というその態度に心が苦しくなる。だから、人と話をしているとき、恋をしながら、いつも失恋してるような、そういう気持ちになる。少しもあなたの心の茶漉しに私が越されてあなたの一部にならないことが、私が私の時間をこの場所に預けてあなたと過ごしているという事実がまるで意味のないものになるみたいで、その非対称さが悲しい。

東京出張が思った以上に長引き、3月はまるまる半分東京で過ごすことになった。不摂生を繰り返しているから口内炎ができて、リンパがずっと腫れている。こういうとき疲労が体に溜まりやすく、いくら寝てもいくら寝ても眠い。ウジウジくねくねした親友の煮え切らない態度に腹を立てて友達たちにその鬱憤を話したりしている。もう一人の親友には連絡をしていないまま1週間ほどが過ぎようとしている。私の余裕がなかっただけだと今は思っているが、それを弁明するのも今は億劫で、そのあとのことを特に始末しようという気持ちにもなっていない。

金沢に帰りたい気もするし、帰りたくない気もする。
家の広い静かなベッドで眠り、バランスの良い食事を取れる生活を取り戻したいが、東京の、会おうと思えばいつでも会いたい人に会えるというフットワークの軽さに、心が揺れる。思ったよりも友人たちが恋しかったし、休日に会いたい人がいることがこんなに嬉しい。金沢では皆が良くしてくれるし、優しい人たちばかりだけれど、やはり私とみんなの間には薄く白い膜が貼られているようで、一つ膜の向こう側の出来事を膜越しに撫でているような、狡さと不確かさが付き纏っている。金沢の一人一人に約束された土地の豊かさと、東京の密度の中で揺れている。

どちらにしても、この豊かさも、戦争が目の前に迫りつつある今になっては、ただの状態でしかないこともわかり、生産手段を持っていない自分の生命としての危うさみたいな、そういうプリミティブな危機感も同時に抱えている。

2026/3/17
夕方の新幹線に乗って金沢に帰る予定だった。せっかく東京にいるのでオフィスで会社の人々のいる空間で仕事をしたかったが、作業に追われて結局家を出ることができず、会社の一番仲のいい友人から、会社の近くのカレー屋さんに一緒にランチを食べに行こうと誘われていたのに連絡もせず、18時までしか空いていないリース屋のの返却のために、慌ててパッキングをして家を出た。どうせオフィスにも顔を出す程度で、あとは家に帰るだけだからお風呂にも入らずメイクも最低限で家を出る。重いスーツケースを引きずりながら、自分の薄情さを思い返して、友人たちの顔が思い浮かぶ。私は随分わがままで横柄で意地悪で偏屈なのに、友達でいてくれる友人たちに嬉しい気持ちが溢れる。いつもありがとな....

2週間分の疲労もあって、帰りの新幹線は眠りこけてしまった。


2026/3/20
3月20日に誕生日を迎える知人が5人いる。一人は一時期とても仲が良く、夜な夜なお泊まりをして遊ぶ仲だったが仲違いをしてからはインスタのストーリーズで近況を目撃するくらいで、3月20日になるたびに思い出すが、誕生日を祝うメッセージを送ることはもうない。去年の誕生日にメッセージを送ったが送ったきり返事はおろか、既読もつかなかったので、誕生日に生まれたことを祝う、という友達としての義務から解放されたのだと思い、それ以来メッセージは送っていない。その他の4人とはそれほど親しくないので、思い出しはするが、特にお祝いのメッセージを送ることもない。

平岡さんがくれた「らんちう」を読んだ。非常に面白かった。(「らんちう」は平岡さん自身が受けた性的な暴力の体験を起点に発行された、寄稿者が全員匿名でジェンダーやセックスについての体験を語った文芸誌です。)匿名なこともあり「個人」がそこで活き活きと演出したり包み隠したりすることなく「おしゃべり」をしていて、友達が大人数で集い思い思いにグループで話している場所で聞き耳を立てて聞いているような心地よい気持ちになった。「性」にまつわる話題は私にいろんなことを思い出させた。親から受けたことや、小学校の担任のこと、小学校の時のクラスメイトや5歳の頃遊んだ両親の友達のこと、家を出てそれからのこと。人には言えないことがたくさんある。今は「普通」の自分になれたから、その日常の優しさでそれを掘り返したいとも思わず、だから恋人にはいうことがないし、恋人に話してもきっと「いいんじゃない?」という言葉を聞くことになるだろうし、多分私が傷つくことになるだろうと勝手に想像して、言わずにいる。なんでも話すことばかりが信頼関係だとは思わないし、私が傷ついたとき彼はきっと私のことを守ってはくれないだろうという漠然とした、しかし確信めいた不安がある。私の消化しきれていないトラウマが原因だと思う。「トラウマがあるのが気になる、でも俺には害がないからいいと思う」と言われたことがずっと気になっている。理解されるとも思わないし、理解されないことで傷つきたくはないという気持ちがある。理解されないことが真実になったとき、せっかく一緒に生きていけると思えた人を失うのが怖い。やはり私は誰とも生きることができないのだ、ということが再度事実になることが怖くて話せないでいる。バランスだから、それでうまくいくなら、それでいいと言い聞かせている。

2026/3/22
おしゃべりが得意ではない。

2026/3/23
人の問題は私の問題ではない。
私はその状況も感情を引き受ける必要がない。

2026/3/24
彼氏と電話していて、目が覚める話をしてと言われて、面白い話が思い浮かばず、無理に記憶を掘り起こしたら18の時に身に起こった不愉快なことを思い出して話そうか迷ったが、「目が覚める話にしては体を張りすぎだ」と察知した妹に止められて寸でのところで話すことをとどまった。危なかった。彼氏からは「ひどい」と言われた。いつか話すかもしれないし話さないかもしれない。

2026/3/25
広告案件でグレーディング作業があり、水道橋でナレーション収録を終えそのまま新宿3丁目のスタジオに行く。老朽化した細長いビルはエレベーターがなく細い階段をぐるぐると6階まで上がる。いつも窓から見下ろす大通りの並木を見てパリみたいだと思う。パリみたいですよね。アカシアの並木と、アスファルトに雨が降って、街の光が反射するところが。とお客さんたちに言ったら「なんかエモいですね」みたいなことを言われた。スタジオで立ち会いをしたいというので案内をしたら、ビルが見つからないと電話をかけてきて「このボロいビルとかじゃないですよね...?」と不安そうに言われてカラリストとケラケラと笑った。そのボロいビルです。その人は仕事が忙しすぎて家庭が崩壊したと言っていた。隣で原価の話してて、いいのかな、と思った。

カラコレのOさんには会社の余裕のある案件の時にはいつもお願いする。私がスタジオに行くたびにペラペラとおしゃべりをするからOさんはなんだかんだで私のことをだんだん覚えてくれて、私がタイヤの面白さに気がついた話や色が見えなくなったらどうしようと杞憂しているのを見て、細長い人差し指の腹でメガネをスッと直しながら、クールに返事をする。

今回はディレクテッドバイチサなんですか、と言われ、名前を覚えてもらえたことに嬉しくなった。
一昨日に納品した仕事を見せたら、所属している会社らしいデザインができるようになったことを気づいてくれた。アーティストのドキュメンタリーのための企画書を見せたら、的確なアドバイスをくれた。「建築」という構造に全てを無責任に背負わせようとしていた私の荒さを見抜き、キュメンタリーは構造の話をするだけではなく、何が解き明かされるのかを明らかにしなければいけないと言われた。人を建築と例えるなら、何を建築とするのか、それはどんな建築なのか、なぜそれは建築なのか、ということを明示しなければいけない。その問いに人が興味を持つんだ、とか。とても有意義な話だったから本当は録音したかったけど、後ろめたくてできなかった。もったいないことをした。Oさんはとても面白い。Oさんとおしゃべりがしたくていつもお願いしているところがある。

2026/3/27
無事に全ての納品と提出を終えて、会社の子達と花の金曜日に出かける。
浅草橋の韓国焼肉にみんなで行く。皆仕事の疲労と空腹で山のように食事を食べる。思いつく限り食べたいものを頼んで山賊の食卓みたいになったのを好ましく見る。山賊のようなご飯が食卓に並ぶ瞬間が好きだ。
本社ではボウリングが流行っているようで笹塚ボウルに行くために移動する。同僚のNくんは土曜日しか休みがないから明日を大事にする、と言って市谷で乗り換えて行った。同僚二人と同僚の友達と笹塚まで行ったが笹塚についてからボウリングはブックドアウトされていて、入れないことがわかり、タクシーで渋谷に移動する。助手席に座ったらおしゃべりしたそうな運転手のおっちゃんに話しかけられて、どうせ金曜日だし酔っ払っているし、おしゃべりが好きだから話した。雨の中の井の頭通り。窓に伝って道ができる水滴とかき分けるワイパーがしゃこしゃこ。
「30年勤続した会社から早期退職進められてね」
「えっ、大変でしたね」
「その頃12貰ってたんだよ。そのまま働き続けるってなったら年収が半分になるって言われてね。」
「へぇ」
「30年勤続だから、退職金はたんまり出たんだよ。4000万。

「それじゃあしばらく遊び放題ですね」
「そりゃもう遊んだね」
「趣味とかあるんですか?」
「趣味?趣味はねぇ、釣りが好きだね」
「川釣り?海釣り?釣り堀?」
「なんでもだよそりゃ」
「釣りの何が好きなんですか?」
「魚が来るところにかけて、釣れた時が嬉しいね」
「へぇ、じゃあタクシーも釣りと一緒ですね」
「一緒だね、おっきいのが釣れたり小さいのだったりね」

2026/3/28
3時に帰宅して、シャワーを浴びて、そのまま電車に乗って東京駅から始発の新幹線で金沢に帰った。寝過ごさないように彼氏がずっと電話を繋げてくれていた。

帰宅してそのまま1ヶ月前から予定していた撮影のために東武車庫の方までバスに乗る。
山側の方には用事がないから行ったことがなかったが、僻地の空き家に住んでいるという人がいたので話が聞きたくてカメラとマイクを持っていく。どんどん家がなくなって、だんだん土地の標高が高くなっていく。バスの終着からタクシーで行こうと思っていたが、タクシーが捕まる場所でもなく、4キロの片道を歩いて行こうという話をしたが、もう一人の子はボックリみたいな靴を履いていたし、私は睡眠不足の疲労お化けだったので30分歩いた頃にはくたばってしまい、途方にくれたころタイミングよく家主が迎えに来てくれた。2時間ほど話を聞いて、帰宅した。その子の住んでいる家は埃っぽく寒さもあり、途中から体調が悪くなり、帰りコンビニ前で寒さに凍えて縮こまっていたら「さようならアーティストさんのこんな姿見たくなかったっす」と一緒に行った子に言われて、なんか申し訳ないなと思った。
「私も工場で9-5時で働いて、空き家に1.5万で住んで暮らそうかな」と言ったら、こんなに才能があるのにもったいないっすよ、と言われ、そういうもんかな、と思ったりした。


2026/3/29
気の狂ったスケジュールで仕事をしていたら無理が祟って寝込んだ。
気の狂った生活をしているのに体を壊さないと心配になるから、熱が出て身体中が痛くて喉が痛くて久しぶりにこんなに体調が悪いと逆に嬉しい。

3月はほとんど金沢にいなかった。仕事の関係で東京の妹弟の家に泊まって夜遅くまで仕事をした。妹弟の家は布団も薄いし、夜中まで誰かが活動していて、眠りも浅いし、たまにソファで寝ることもあるし、体に負荷がかかる。あまり人間の生活とは言えない。彼氏が小さいホテルでぶつぶつと文句をいうのも少しわかる。今までは20人のタコ部屋でも、空港や公園のベンチでも会社の床でも眠れたけど、金沢の一人で静かなダブルベッドの生活に慣れてしまうともう2度と経験したくない気がする。年なのかな。妹弟たちにちゃんとしたマットレスを買ってあげようか迷っている。私は25歳になってやっとフカフカのベッドで眠ることができるようになったから、妹弟たちも同じ思いをしてもいいんじゃないか、と思うけど、同じ思いを別にする必要もない気もする。

東京にいる間せっかく東京にいるにも関わらず友人には会わず、体調を優先した。22時くらいに家に帰るようにし、最寄りから彼氏に電話をかける。おしゃべりをしているとあっという間に2時とかになって、毎日朝が早かったので白目を剥きながら7時から8時ごろに起きて電車で1時間先の会社に行った。仕事に往復に2時間かかるってやばい。4月からは9-5時で終わらない仕事は受けないことに決めた。去年も同じようなこと考えてた気がする。








 

交換日記2:彼女が振り返る頃、そこにもう彼女は存在しないこと

人を好きな気持ちは意外と忘れてしまうから書き留めておく。
日記を書き続けるのはやはり難しい。何もやらない、という習慣ばかりを長いこと積み上げているから毎年の初めに心を決めたくらいではあまり変わらない。

2026/01/06

金髪の26歳、私は私を誇りに思うけど、相対的にみると恥ずかしいと思う。空港でフラフラするし、いつも眠いし。やれやれ、と言う顔をされると、やれやれ、ではない、と思う。(やれやれ、という顔に見えてしまうのは私の問題)「彼女、金髪なのね」と言われたら、なんか、勘繰る。友達は「ちさちゃんの咲いた花を見て、その花が見事だからあなたに人が集まるんだよ」と言ってくれたけど、私はやはり自分に咲いた花を自分ではまだ見れないから、来た道をみて理解してほしいと思ってしまう。トラウマがあるのが気になる、と言われ、「でもそれが俺に関係することはないから別にいいかと思っている」と言われたら、それはそうだけど、そうなんだけど、と思ってモヤモヤする。その話を友達に話したら、「そんなのってないと思う」と言われた。


2026/02/09
恋人が遠いところから会いにきてくれた。
フィンランドから名古屋に出張のついでに、国内だったらついでに、という距離ではない距離をついでに会いにきてくれた。過ごしている時間私たちはずっとニコニコ過ごして、美味しいものをたくさん食べて、よく眠り、よく笑い、たくさん写真を撮った。彼のおかげで私はのびのびと人を好きでいることができて、だから昔のことを思い出して悲しくなったり、理解されない可能性に思いを馳せて閉鎖的な気持ちになることがなく、私は彼の見えている通りの笑顔の素敵な明るい人でいることが嬉しくなった。
初めは遠距離でも寂しくないよと思っていたけど、思ったよりも早く会うことができて、3日間たっぷり過ごしたらお別れの時にしっかりと寂しい気持ちになってしまった。金沢駅で電車の時間を待つ間買ったコーヒーを片手に、改札の前で見えなくなるまで見送った。何回も振り返って手を振ってくれるから私は安心して手を振り続けることができた。とはいえお別れが寂しいということは、それは人を好きになったということだから、寂しいという気持ちが生まれることは私にとってとてもポジティブなことで、それはその3日間を過ごさないことには生まれなかったことだったから、やっぱりタイミングはお互いの相性よりも大事な気がした。

 

2026/2/12
好きな人ができた。恋人のことが好きだからとてもびっくりしている。
恋人とは付き合ってまだ1ヶ月しか経っていない。出会ってから2ヶ月ちょっと?もう昔からずっと一緒にいるみたいな感じ。少し前まで全くの他人だった人が自分の人生に関わっている人だということに度々奇妙な気持ちになる。私にとって人と付き合うことは今まであまり自分の人生には関与していなくて、いつもずっと長いこと一緒にいれたらいいなと願っているものの、心のどこかでは自分の人生とは全く関係のない人間だと割り切って付き合っていたから、その関係性はいつも私にとってかなり希薄でフットワークの軽いものだった。出会ったばかりだし相手のことをよく知らないけど一緒にいたら好きになれるんじゃないかと祈ってみるけれど、やはり他人は他人のままで、ビロングすることの難しさに筋肉が引き攣っていつも逃げ出してしまうのが恒例だったから、あまり私は私の好きを信じられない。だけれども、私も曲がりなりにも26年生きてきていて、人と関わるたびに自分の悪かったところを反省して、16歳や18歳や22歳や25歳の頃よりも人を大切にする、ということをわかったように思う。それがあるから恋人の素敵なところをたくさん見つけられると思う。ありがと、過去の私。ちゅっ♡

 

好きな人の好きなところ

・自分の行動を全部説明できること
・あまりにも物事の見え方が違うこと
・あまりにも物事の見え方が違うのに、私の言葉によりそって言葉を投げてくれること
・私がきた場所を笑わないこと
・なんでも言葉にすること
・日々のかけらを見せてくれること
・小さなことを拾って受け取ってくれること
・無理はするけど無理はしないこと
・存在が固まって見えることがないこと
・言葉や時間を大事にしてくれること
・子供や動物が好きなところ
・欲しいものがいっぱいあること
・いろんな表情を持っていること
・正直なところ


恋人がとってくれた写真を見返していたら、私の顔には笑い皺がついていて、笑い皺のできる26歳になったことが嬉しくて、私は目の下についた笑い皺を愛おしく思った。どんな表情をして生きてきたのか、笑っていた日々が顔に刻まれていくのが素敵だと思う。

 

2026/2/14
恋人が花束をくれた。
花束をもらうってこんなに嬉しいことだったなんて知らなかった。好きだからかな、好きって変な感じ。
恋人はどうしてこんなに愛をする言語に優れているんだろうか。それともやはり今まで私が愛を受け取る技術が足りなかったのかもしれない。
かもしれないとかじゃなくてそう。おそらく花束をもらうのは人生で初めてではないはずなのに、花束をもらったのが初めてだというように思い出を修正していることに気がついてしまった。親友がお花をくれたことくらいしか覚えていない。私のことが好きだという男から花束を贈りたいと言われた時もいらないと言って拒絶をした気がするし、最初の彼女や花屋の元恋人ももしかしたら花束をくれた気がする。最近付き合ってた子もバレンタインにお花をくれた気がする。嬉しかったんだっけ。忘れた。元恋人たちのことが嫌いだったから何をされても嫌いだった気がする。私は好きではない人を恋人だからという理由で大事にすることに日々疲れていたし、彼らからの贈り物は、すべて今彼らに与えていること以上の労働を求められているようで荷が重かったからだと思う。でも昔の私は、私のことを好きな人のことがもれなく嫌いだったから、本当にロクでもない。ごめんね。ごめんねとか、ひどいけど、ごめんね。


   




2026/2/15
胃はもたれていて、だるい体を起こすのにお昼過ぎまでかかった。昨日食べた焼肉が消化不良を起こしたのだろう。多少眠くても消化するまで待って眠ればよかったと後悔した。

昨日は焼肉を食べに行った。金沢で知り合った仲のいい友人が誘ってくれて、日頃仲良くしてくれている金沢の良き先輩と3人で合流して、割と新鮮な話をした。パートナーの話や、石川について、とか服について、とか、その先輩とは普段はクラブでしか会わないから、こういう機会はとてもありがたい。
ところで私は肉があまり得意ではない。前までは焼肉を食べに行く、と聞くと嫌悪にも似た拒否感を抱かずにはいられなかったが24歳をすぎた頃から、人々は焼肉が好きだし、私もそこまで頑なになる必要もないと思い、「私は焼肉があまり得意ではない」という余計なことをいうことなく、何ともない顔で焼肉に行く所作を覚えた。人と食べるご飯はなんでも美味しいし、一緒に食べに行く限りお金を払っているわけだし、お腹に何も入れないというのは感じが悪いし頑固すぎると思うが、焼肉を食べるたびに、焼肉が好きな人は焼肉の一体何が好きなのか、謎は深まるばかりだ。

昼過ぎに起きて、迷いもせず携帯に手が伸びる。この憎らしい体の習性に嫌気がさす。対して面白くもないゴミのようなコンテンツをスクロールし続けていると何時間も過ぎてしまう。部屋を片付けたり、先週末に干した洋服を畳んで洋服棚にしまったり、週明けからのお弁当や夕食のための食材を買い出したり、作り置きを作ったり、しなければいけないことはたくさんあるのに、携帯から距離を置くということがあまりにも難しい。金曜日までに終わらせる必要のあった仕事を終わらせる必要もあったから、昼間のうちに図書館に行こうという計画もあったが、家の外に出ることもできず、このままでは休日のどちらも棒に振ってしまうので鑑賞途中の映画の続きを見た。平岡さんが映画のシーンを水彩で描く新しいアカウントを始め、ベルナルドベルトルッチの暗殺の森を取り上げていたので気になって、昨日は友人と合流するまで観ていた。(幼少期に同性愛者からの性暴力をうけ、正当防衛で殺してしまった少年が、トラウマから大衆や同化に固執し、WWIIののイタリアでファシズムに傾倒する話なのだが、映画技法に富んだ美しい構図やカメラワーク、照明が素晴らしかった。)
部屋には昨日恋人が送ってくれた大きな花束が花瓶に活けられていて、私が選んだ家具たちは絶妙な色のバランスで部屋を彩り、見晴らしにこだわって選んだ部屋の窓からは夕方の優しいオレンジ色の光がさしこむ。私の金髪のうねりは美しく豊かだったから、満ち足りた気持ちになった。たまに私は私をとても美しく思う。

私は、私がやはりわからない。どのような人間のように見られていて、何者で、これから何になって、どんな人生で、どんな生活を送るのか、想像だにつかない。



2026/2/17

深淵がぺろっと顔を出す時「おいおい勘弁してくれ」と思う。私は深淵を忘れて手触りのある豊満な生活を営んで、それに満足し、間抜けになったと人々から思われようが、その感受性の低い日々を大事にしたいと願っている。しかし私の深淵は容赦がない。忘れられてたまるかと影から伺っている。深淵を覗いてよかったことなどない。
生きることは「物語」ではなく「お話」の連続で、日々とは人々に血や肉が豊かに通い、有機的に時間を積み重ね、生きた厚みとして存在しているのに、深淵とはそれを全くの骨抜きにしてしまう。というよりも全てを骨だけにしてしまう。
深淵が顔を出す時、豊かな世界は瞬く間に全てが死んだ珊瑚のように薄ら白く透けた骨格だけに成り下がり、意図と装置だけが浮き上がる。そうなってしまえば、私にはもう人の姿が見えなくなった。美しい人々の顔や名前も忘れ、ボタンが押され結果が示され続ける、単調で永遠に続くスクリプトを白けた気持ちで見ることしかできなくなってしまう。

骨だけになった珊瑚の死体の中で、身動きができなくなる。後退りをして逃げ出したくなる。
どうしてそうなってしまったのだろうか。19世紀初頭だったら精神病患者だと思われて真っ白な病室にぶち込まれて「気の毒な娘さん」と指を刺されてしまうだろうなと思うとゾッとする。21世紀に生まれて本当によかった。

 

2026/2/25
「ちさちゃんは宮田さんの弟子なんやね」と言われて嬉しかった。

モリコーネのドキュメンタリーを観たから、海の上のピアニストを観返した。妹も最近観ていたし、昔に見たことがあったが内容をよく覚えていなかったからいい機会だと思い、仕事も終わっていないのに仕事を切り上げてサブスクを開く。演技が小学生みたいで、ウケたが、「船」という設定を考えついてそれをお金かけて成立させただけでもはや勝ちゲーだと思う。でかい鉄の箱が海の上に浮かんで動くということがすでにおもろいし。でかい鉄の中に人が暮らしているということも面白すぎるし。私だっていくらでもお金使っていいよと言われてたら絶対船作ってたと思うし(イキリ)

とはいえ、揺れない地面があると信じることのできる人は幸せで、地面が揺れないという安心感が「家」を作らせた。想像の豊かさと想像できないことの恐怖は表裏一体で、豊かだからこそ、自分の体の小ささに絶望する。地面が動かないなら、自分が歩いて行くしかないからだ。

心みたいにピアノ弾けるの羨ましい。
心みたいに喋りたいに決まってる。だから曲を聞かれたら恥ずかしい、この言葉は私と私のみたあなたのもの。



2026/2/26
恋人のものの言い方に突っかかってる時が一番嬉しい。「きっと理解してくれないに違いない」とか「アーギュメントしたがる人はめんどくさいと思われるかも」とか「どうせ一緒に生きて行くわけではないし」と思って今まで口に出せなかったことも恋人には言える。喧嘩するのが楽しいから、突っかかるところがあればいつ喧嘩できるかとワクワクしながら喧嘩を始める。喧嘩が楽しいってどうして誰も教えてくれなかったんだろう。世の中の女の子たちはみんな喧嘩が楽しいから喧嘩をしているのかしら。

2026/2/28
恋人のお使いでポケモンセンターに行った。30周年記念でメモリアルピカチュウが売られていたらしい。ほしいというから、観にいくことにした。私は休日は絶対に仕事のことを考えないと決めていたので、仕事のことをいかに考えず、有意義に過ごしたという1日を作り上げるかということが大事だったし、何より捻出しようと思えば割ける時間があったので、修理に出していた自転車をピックアップしてから、金沢駅のフォーラスまで自転車をこいだ。ポケモンが好きな人たちが行列をなして並んでいるのがろもしろくて一人でくすくす笑いながら恋人のことを考える。浮かれている私は可愛い。

金沢で知り合ったトランス音楽好きのソウイチロウくんとパーティーの話をするために駅の近くで茶をしばき、ソウイチロウくんは今日3倍目のコーヒーを飲みながら、「寸止めが一番キモチイーんすよ。音楽って、祈りなんすよ。
」と言っていた。ソウイチロウくんはケーキ屋をやっていた昔の親友によく似ている。二人で駅から片町まで歩いて帰った。先週の土日に上司の奥さんが差し入れで買ってくれたミスドのポンデリングが美味しくて、ポンデリングをたくさん食べたかったので帰り道にミスドを買った。エンゼルクリームを食べたことがないと言ったら、「俺のカーチャン絶対エンゼルクリーム食べてたなぁ、父ちゃんはドーナツポップチョコファッションボール食べてたなぁ!」と無邪気に言っていた。エンゼルフレンチだったかな、チョコレートドーナツだったかな、どれでもなかったかもしれない。


ピアニスト続きで戦場のピアニストをみた。今日わ片手にワイン飲みながら映画観るぞ💪と思いながら、全く前情報なしでワクワクしながらポンデリングを頬張っていたら、いきなり車椅子の人が5階のベランダから落とされて死んで、ポンデリングの味がしなくなった。第一次世界大戦時ポーランドに住むユダヤ人ピアニストがホロコーストの戦禍を奇跡的に生き延びた実話をもとにした映画だが、ドーナツ食べながら見たら絶対にダメな映画のランキングがあったら上位5本指に入ると思う。そういう茶化し方をしては絶対にダメなんだけど、注意書きに書いて欲しいくらいにはショックを受けた。映画はとても素晴らしく、映画技法などに目くじらを立てている暇もないくらい作り込まれていて、いつの間には私は透明なカメラになって主人公の後ろを追いかけている。豊かな生活が徐々に奪われ、余白がなくなり、生存が浮き彫りになっていく。隣人や友人が殺され、家族が強制収容所に連れて行かれ、だんだんと一人に、ひもじく、寒く凍えて、暗澹としていく。主人公の、当事者でありながら、一人だけ人に助けられ生き残ってしまうという後ろめたさと、それを温かい部屋で毛布にくるまりながら両手にドーナツ持って食べながら観ているその非対称さになんだか気分が悪くなる。私とその映画の境界が限りなく透明になって、私に気まずさを与える。気まずくて、ドーナツを見えない場所に隠して、暖房を切って、毛布にくるまりながら申し訳程度に凍えながらみた。そんなことをしても何の意味もないから、それは欺瞞以上の何でもないのに、それはそれで面白がっていることもまた嫌気がさしたりした。

戦争映画って気分が悪いけど、戦争映画って大事なんだと思った。面白くはないし、ドーナツは不味くなるし、吐き気がするけど、それでも作らなきゃいけないんだと思う。だって人が虫ケラみたいなんだぜ。虫ケラだって尊いけど、今話したいのはそういうことじゃなくて。