影をひろいあつめて

毎日一言日記

お前の歪な魂の形が見たい

世の中の全てのことはいかに「気まずさ」を回避するか、ということを中心に動いているとさえ思う。
宝石のついた高価な時計、ツヤツヤピカピカのポルシェ、複雑なステッチやフレア・スリット・丈やテクスチュアがレイヤードされた服、手触りのあるザラザラしたファンシーな風合いの紙、香水、虹色のパイナップルヘアー、いろんな柄の肌を覆うタトゥー、12mmのカラコン、鰹出汁、寿司につける醤油、ありとあらゆる素晴らしい映画、あらゆる音楽・絵画、5感で旅行をするフレンチコース料理、脇下やVIOの脱毛、スキンケア、情報誌、ピラティス、世界一周旅行、日記。
俺らという存在はどこにいても何をしていても、どこまでも気まずい。 私が私という存在にとっての替えの効かなさに比べて、世界にとって私という存在への必然性のなさという非対称性が存在する限り、人は悲しく、その存在の維持にはいずれにおいても「死」が必要なのであれば、やはり私たちは気まずさを抱えて生きるしかないだろう。そしてそれでも生きることを続けるのならば、気まずさを回避するということを避けては通ることができない。そしてできれば、「華麗に、見事に」「気まずさ」を回避したい。

数日風邪をひいて、考え事が捗ったのでまとめてみる。風邪はマジで最高。仕事ができないのだから、仕事を休んでも許されるし、寝込んでいてもいい。私が「仕事ができない」ことに正当性ができる。最高すぎます。一生風邪をひきたい。やっぱ嫌かも。頭も痛いし、体も痛いし、咳は出るし、疲れるし。健康が一番だし。

いつまでも考え事や分析ばかりをしている自分はものづくりに向いていないことについて、頻繁に落ち込む。風邪をひきながらそのことをずっと考え続けていた。そしたらスコセッシの「最も個人的なことが最大のクリエイティブなことだ」みたいな格言の「答え」らしきものがわかった気がする、んご。わかってしまった、しまったました☝️

世の中には気まずいことがいっぱいある。
例えば二足歩行は気まずい。歩いている時に手はどう振ったらいいかわからないし、歩いている時の耳は所在がないし、第一どういう顔をしたらいいかわからない。二足歩行は極めて気まずい。歩いている人たちを見ると、左だけに体重が乗っていたり、骨盤が一番後からついてくるように歩いたり、首だけ前に出ていたり、ひょこひょこ歩いたり、やはり気まずそうだ。そして世の中には気まずくない歩き方、というのが存在する。骨盤を立て、踵を一直線上に押し出すようにして顎を引いて前を見据えて歩く。2本の腕は筋肉を余すことなく、優雅に曲線を描く。モデルウォークのことである。かっこいい。元々二足歩行だが?という顔ができる。
あとは、知り合いのいないパーティーで一人で立っているのは気まずい。腕や足をどう収めていいかわからない。ポケットに手を突っ込む、足を組む、気まずさが回避される。食パンだけを焼かずに食べるのは気まずい。トーストしてバターを塗ったりジャムを塗ったり、卵を焼いたりする。気まずくない。
気まずさ、とは「必然性のなさ」であり、「空虚」や「空白」、そして「暇」のことである。


華麗に見事に気まずさを回避しているもの・人はカッコいい。
ピカソ、松下幸之助、ルネラリック、ダミアンハースト、ジェームズタレル、ロンミュエク、ロイアンダーソン、イブサンローラン、マティス、安藤忠雄、石岡瑛子、無限に出てくるのでこれ以上あげないが、彼らが評価されるのはその気まずさ回避が見事で華麗だからだ。


「華麗ではない・見事ではない気まずさ回避」とは「気まずさとの追いかけっこ」に勝てないことである。
気まずいからレースをつけてみる、なんか気まずいから胡椒をふる、なんか気まずいからここに水色を塗ってみる。しかし前提気まずいので、気まずさを回避しようとすればするほど気まずさを呼んで、回避したはずの気まずさの隣に別の気まずさが現れる。創作することはこの気まずさとの追いかけっこだ。気まずさからうまく逃げ切れることが「センス」でもある。

気まずくないこと、というのは「理由に満たされていること」だ。
その存在が理由に満たされ、その存在には必然性があり、その存在を生み出すために、人が何かを殺し食い、クソをし、毎日ゴミ袋にゴミが満たされていくことの正当性のことである。
大抵の場合は、その気まずさを「コンセプト」や「公共性」で回避している。それは時代性を帯びているか?それは資料的な価値があるか?それは社会的か?大衆が求めているか?それはどんな文脈があるか?その価値は普遍か?それは「批評」に値するか?全ての広告や、不動産、プロダクトはそのようにして作られている。

で、スコセッシの「最も個人的なこと」に対する答えはそれを踏まえた上で、
次にあるんでわないか?とおもった。

「コンセプト」や「公共性」は外側から内側の空白を塗り固めようとする行為である。建築である。工事である。どこまでも巧妙に設計し、設定し、間を埋めていく作業を必要とし、計算を間違えばその穴や、欠落を発見することはいとも簡単である。
しかしその実、自分、という存在は理由に溢れている。0から1000まで小数点0いくつまでも理由に溢れている。
私がこう考える、あなたをこう捉える、私は今日何を食べる、私は何が好き。
全てに理由がある。生まれる前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の....話から私が私である理由がある。私がポストイットに文字を書いて壁に貼るのが好きなのは、曽曽曽曽曽曽曽曽曽曽曽曽曽曽曽祖母さんが、山で育ったがはじめて行った海でクラゲを食べてみたことでコリコリとした歯応えの感覚が好きだったから、海辺に住みつき配偶者を見つけたが、海の近くは山と同じように自然の厳しさがあり、子供は12人生まれたが6人は海にまつわる死でなくし、3人は山のコミュニティーの厳格な掟に背いた罪で百姓をして生きていかなくてはいけなくて、そのうちの末っ子にあたる「とよ」は、海への恐ろしさをどこか物語のように思っていて、夜に母と手を繋いで家に帰る時には「海」が足元から忍び寄ってくるような、そんな恐ろしさを抱えて育ち、大人になって隣の家の勘兵衛に嫁いだ。勘兵衛とは家が隣だから馴染みがあり、「とよ」は「勘兵衛」の眉毛と、「海」にももしかしたら負けないかもしれない、という予感を好ましいと思っていて、あとは好ましいか好ましくないか、という考えにも及ばない。「そういうもの」だったから、という理由だけであり、その二人から「いよ」「たま」「にし」「与太郎」が生まれ、、そしてそういう連鎖の果てに私はポストイットで壁に文字を貼るのが好きだ。タイムラインを端折ったのは私がそれを「知らない」からであり、文章を書くならその空白を埋めないと気まずいが、書かれていなくても黙っていてもそこに事実が存在している。描かれていなくても、見えなくても、事実として存在している。そういうことが大事だ。

「最も個人的なこと」というのは、こういう夥しく連なる、お前がお前である理由、を煮詰めて煮詰めて凝縮して、それ以上にはならない、それ以外にはならない、お前はお前のようにしか生きられないし、お前はお前のようにしか作ることができない、お前はこのようにしかあることができないように在ることだと思う。私は私のようにしか生きることができない、これはこのようにしか描くことができない。不可逆に生きていく人間は必然的に時代性を帯び、生きることそのものは政治的であり、社会的だ。「最も個人的なこと」は「最も社会的なこと」であり批評に値する。「最も個人的であること」によって「華麗に」「見事に」「気まずさ」を回避することができる。それはすなわち世界と接続するための方法である。

多分、「創作(クリエイティブ)」とは一人一人の歪な魂の形を愛でることだ。歪な魂の「形」を表すことだ。資産価値や歴史資料的価値だとか、美しいか醜いか、という話ではない。摂取した情報をアレンジして「自分なりに」「カッコよく」生成することでもなく、いつか見た「カッコいいもの」が自分自身であると錯綜して再現することでもなく、こうでありたい自分の姿を装うことでもない。どこまでも歪な姿であることを恥じず、どこまでも自分らしい形を探し当て、のみで削りだす作業だ。トントン、カンカン、である。トントン、カンカン、とは自分をどこまでも裸にすることである。

片方の肩だけ位置の低い立ち方をする人がいる。困った時には自分の顔を両手で揉む人がいる。口を膨らませる人もいる。何にでも醤油をかける人がいる。酢豚という料理の態度が好きな人・嫌いな人がいる。歩いてくる足音だけで誰かわかる。素直でいることが好きな人がいる。隠すことが美しいことだと思う人がいる。本当に誰一人としてみんな歪だ。歪だから気まずい。気まずいから、「気まずく歪な魂の存在」を見て、気まずくなくなりたい。

をれはお前の歪な魂が見たい。